2011-08-15

 アラームの波状攻撃で目が覚めた。朝の5時半過ぎ。昨日よりは遅いがそれでも早起きの類。
 鉄道旅行、特に普通列車乗り継ぎで鉄道旅行をしようとすると朝の時間をどう生かすかというのが大事になってくる。何だかんだ言って朝晩は運転本数も多いから接続も良くなる。東京から大阪みたいな大幹線だけを行き来していればあんまり気にしなくても良いが、昨日みたいに本数の限られるローカル線を組み込もうとすると、制約になってくる。
 今日も制約があって仙台発は6:45とした。ホテルを6:30にチェックアウトすべく準備をする。テレビを点けるとNHKの天気予報。今日も東北は暑くなるようだ。お盆を過ぎれば朝晩は過ごしやすくなるのが自分の知っている東北だったが、今日は、さて。
 駅へ向かう。気温は低いが湿度が高く不快指数は高そうだ。
 
 駅は通勤客、と言うよりも帰省客で混雑している。Uターンラッシュの始まる頃。朝早めの空いた新幹線で東京に戻る人たちに違いない。朝6時半だがお土産屋が賑わっている。
 
 今日はこれから盛岡へ移動する。まず乗るのは小牛田行きという普通列車。東北では必ずお世話になる701系電車を6両連ねた列車だ。仙台を朝早く下って行く列車だからラッシュとは無縁だろうが、小牛田から戻る時はラッシュの真っ只中になるのだろう。
 列車は空いていた。空いている車両を選びたい放題だが、小牛田での乗換えを考えて前の方に乗っておく。先発の利府ゆきを見送るとこちらも発車時刻が近づく。東北線の仙台口も列車、というより電車の本数が増えた。100万人都市に相応しい姿にはなっている。
 6:45、定刻に出発。空いた車内には荷物の大きな人がちらほら。18きっぷの利用客だろう。数としては東阪間を18きっぷで行き交う人よりは少ないだろうが、早起きは3文の得と朝早くから移動に勤しむ人の流れは確実に存在する。
 列車は塩釜を過ぎてしばらく。松島湾のそばを走る。すぐそばがあの日、牙を剥いた太平洋だが、松島の辺りは数多くの島が津波を弱めて被害が少なかったと聞く。ちらっと見ただけで判断をしてはいけないだろうが、昨日の常磐線、磯原辺りで見えた海岸線の様子よりは被害が少ないように思われた。
 所々霧が立ち込める仙台平野、一面の田園光景を掛け続けると、今でも汽車駅と呼びたくなる小牛田に到着。
 
 この先は一ノ関行きに乗り換え。電車はここまでと同じ701系だが、2両編成と1/3に減る。小牛田まで来た電車はそのまま仙台へと折り返し。両方の乗り換え客が跨線橋ですれ違う。乗り換えがひと段落する頃、石巻線ディーゼルカーがやってくる。小牛田から石巻を経て女川へと延びる石巻線津波をもろに被った女川の復旧はさすがに時間がかかり、現在は石巻までの開通になっている。石巻と仙台を直接結ぶ仙石線津波の被害で不通となっているから、小牛田経由で石巻と仙台を行き来する人もいるかも知れない。
 4両繋いだディーゼルカーから乗継客を受けて先程乗ってきた電車は仙台へと戻ってゆく。石巻線からのディーゼルカーは、陸羽東線古川まで直通。一足早く出発してゆく。汽車駅に取り残された一ノ関行きの電車もまもなく出発となる。
 
 電車は短くなり、車窓が鄙びて北へと向かう。太くしっかりとしたレールが不似合いな列車だが、線路がしっかりしているからたいそう飛ばす。下手な特急より早いかも知れない。
 石越の駅。栗原電鉄の駅舎は撤去されていたがか細い線路がカーブしてゆく様子は見て取れる。それが見えなくなるとまた変化に乏しい時間が過ぎてゆく。時折すれ違う上り電車だけが車窓のアクセント。
 東北新幹線のずぶとい高架が近寄ってくるとこの電車の終点、一ノ関となる。ここから先はまた乗り換え。30分ほど間がある。その間にまだ食べていない朝食を考えた。ホーム上の立ち食い蕎麦は10時からの営業だそうでシャッターを降ろしている。以前は9時前には営業していて駅弁も扱っていたのだが、変わったらしい。待合室にゆくと蕎麦のスタンドも駅弁売場も盛況中。折角なので駅弁を食べて行こう。

【今日の駅弁】いわいとりめし ¥800 有限会社あべちう

 
 
 ウニの弁当やアワビの弁当。そして前沢牛のハンバーグなんて名物が並んでいた一ノ関の駅弁。津波で海産物がだめになり、原発で牛がダメになり、その代役で出たわけでないだろうが、とりのお弁当が岩手県産を全面に押し出しているのでお買い上げ。小さなつくねが想像以上に美味しく、もう少し欲しくなる。安価な割によくできたお弁当。
 
 待合室でお弁当を頂くと改めてホームに戻る。先ほどから停まっていた盛岡行き。階段を渡り2番線の電車に席を取る。先ほどの列車から乗り継いだ人だけでなく、新幹線から乗り継いだらしい人もたくさんいて、意外なほど席が埋まっている。
 9時ちょうどの出発。混んでいる分だけ雰囲気の引き締まった。荷物の大きな新人さんは概ね平泉で降りて行く。世界遺産に新規登録となった平泉、観光客の出足はかなり鋭いようだ。自分自身は小学の修学旅行で中尊寺を見学したっきり。中尊寺の位置づけやら意味合いを知らないままみても仕方なかっただろうに、と今になれば思う。改めて眺めれば感じる事、考える事もあるだろうが、今日は先を急ぐ。
 盛岡行きの電車は主要駅、水沢とか北上とか、そんな駅で乗客を入れ替えつつ、だんだんと混雑が激しくなって行く。2両編成でオーバーフローしそうになった所で盛岡の街となる。10時半、到着。
 今日は盛岡泊だが、もちろんこれで行動終了ではない。ひとまずホテル。荷物を預かってもらう。チェックインだけ手続きをしておいた。荷物は部屋へと運んでくれるそうだ。
 再び駅に戻り、今度は場末のような2番線ホームへ。発車まで15分ちょっとだが、列車の姿は無く、その代わりに人だかりが見えたから、その辺りが乗車位置と知れる。
 
 まもなく青森方からキハ110の2両、まるで昨日の磐越東線みたいな列車が入ってくる。これが山田線の快速リアス、宮古行。
 ついこの間までキハ58やらキハ52しかいなかった山田線にもとうとう近代化の波が押し寄せて、どこかのお古らしいキハ110が廻ってきた。キハ58が無くなってからは初めての山田線だが、どんな姿だろうか。
 ボックスに2〜3人ぐらいずつの割合で席が埋まる。みてくれは立派な乗車だが、宮古まで行く今日、最初の列車なのだから、あまりがら空きでは路線の先行きが危うくなる。

 定刻11:02、軽やかなエンジン音と共に列車は動き出す。東北新幹線を左に眺めてカーブしてゆくと盛岡市街を外側からなぞるように列車は走る。本数の少ない列車だが、一駅目の上盛岡で早くも降りる人がいる。ずいぶん器用に山田線を使いこなす人がいるなぁと感心する。上盛岡から乗ってくる人もいて、列車は賑々しいまま山道へ取り掛かる。市街地が途切れ突然濃緑の世界に紛れ込むその変化が激しい。
 
 上米内を出ると畑と人家をちらちら見ながら段々と山奥へ山奥へ入り込んでゆく。「次は区界です。11:28の到着になります」と案内があった後、車掌が検札に廻る。この旅で検札が来るのは初めての事だ。切符に初めて日付印が入る。
 北上山地の山深く、だんだんと畑や人家はささやかになり、廃墟と化した家屋も見受けられる、生活の糧にするには厳しい土地を行く。エンジンはうなりつつも速度は上がらず、キハ110を持ってしても過酷な道。
 長らく唸り続けたエンジンが変調すると景色が開ける。 
 
 区界に到着。一日に数本が発着するだけの駅だが、駅員の姿が見える。絵に描いたような高原の風景。窓の開く列車ならば高原の空気を一杯に吸う事になるに違いない。まもなく発車となる。
 人煙稀な北上山地から人の息吹を感じる里山へ。小さな田圃が見えたり、トウモロコシ畑が見えたり。
 
 白い花咲くのは蕎麦だろうか。かぼそい流れに沿い、エンジンを軽くふかすだけで流れるように列車は坂を下ってゆく。次の停車は陸中川井。途中、川内の駅、駅員が列車の通過を見送っている。久しく見た覚えのない昔ながらの鉄道の情景。
 
 線路は細いままだが、閉伊川の流れは北上山地の水を集めて少しずつ確実に太くなってゆく。久しぶりに大きな集落が現れて陸中川井の駅。盛岡からのお客さん、大きなカバンの帰省客だろうか、が降りてゆき、代わりに宮古へ遊びに行くのか地元の若い子が乗ってくる。列車の本数は少なくても、確実の地元の脚として生きている事が良く分かる。
 沿線に見える人里がはっきりくっきりしてくるとか細い線路が寄ってきて茂市の駅となる。落石事故に伴う岩泉線代行バスの接続案内があったが15:40の出発だそうだ。だいぶ間がある。乗り降りした人の中に岩泉へ向かう人、いないだろうなぁ。駅舎寄り、岩泉線が使っていた線路は赤く錆び付いていた。もう1年以上、かのレールを踏んだ車両は無いはずだ。 
 茂市から先、人里というよりは宮古郊外と言った風情になる。クルマの数もだいぶ増えた。人里が集落になり、市街地になると速度が緩んだ。盛岡から2時間。宮古到着の案内が流れる。乗り継ぎは釜石方面への代行バス三陸鉄道の小本ゆき。どちらも接続は良い。
 
 構内に入る手前で徐行が入ったので宮古に着くと2分ほど遅延となっている。2分遅れ程度で済むならまぁいいのだが、乗換えがタイトになった。
 
 改札を出て市街地を一瞥。
 
 三陸鉄道の駅舎を眺めて
 
 切符を買い求めるともう小本行き。発車する時刻である。お腹は減って何か買いたいのだが、そんな余裕は全く無い。
 
 「震災復興列車」の文字も凛々しく、小本行きが発車を待っている。
 
 車内の様子。ボックスに2〜3人ぐらいの割合で30人ぐらいは乗っている様子だ。地元の人が6割。列車に乗りに来た人が4割と言った所だろうか。
 列車は大きく見れば三陸の海岸沿いを北へ向かうのだが、今見える範囲だけだと山の中を走る。
 
 田老までは国鉄宮古線として開業した区間なのでか細いレールはローカル線そのものという風情。地図を見ると海沿いのルート取りは難しいであろう事は分かるが、鉄道を計画した時のルート選定が早期の営業再開に繋がったのなら、昔の人は偉かった、という事になる。
 長らく山の中を走ってきた列車。まもなく田老の案内が流れる。
 
 車窓を杉の木が流れてゆく。夏なのに赤茶けて、立ち枯れを思わせるような木が景色の変調を告げた。
 
 遠くに海。その手前には街の跡。どこまでも埃っぽい街の跡。そしてうず高い瓦礫の山。
 
 列車が駅に着くと10人ぐらいの人が降りていった。田老出身の人なのだろうか、ホームから変わり果てた街の様子を呆然と眺めている人が数人。
 列車はこの先、小本へ向かう。普段どおりに動き出すと
 
 堤防が見える。X字を書くように構成されていたという田老の堤防である。堤防の鉄道寄りも津波にやられてしまっている。
 
 辛うじて残った家屋を横目に列車は山へと入って行く。
 昨日の久ノ浜もひどいものだったが、津波に対する備えと意識が高いにも関わらずやられてしまった田老の街は見ているだけで居た溜まれず、歩く事なんてなおさらで、通り過ぎるだけに留める事にした。それでも景色の衝撃は絶大。気分が落ち込むには十分。
 三陸海岸を離れる列車は津波の影響を受ける事なく北へと向かう。長いトンネルから外に出ると窓が曇った。トンネルの中は底冷えだったに違いない。山の中らしい摂待の駅は曇りに霞んで何にも見えない。
 
 終着、小本が告げられる。三陸鉄道の復旧区間はここ、小本まで。この先は津波の被害がひどく、久慈に程近い陸中野田までは開通の目処立たず、である。
 
 ここまで乗ってきた人は鉄道に乗りに来た人が多かったようだ。思い思いに写真を撮ったりしている。折り返しの宮古行きは14:10の発車。駅周辺は海から距離があるからか震災を思わす光景はぱっと見た感じにはない。久慈側へと繋がるべきレールの変化さえ気付かなければ。
 14:10の列車に乗れば宮古からの接続も良く18時過ぎには盛岡に戻れるけど、今日は思い至る事があって別ルートで盛岡に戻る。戻る前にお腹が減ったので、何か食べたい。食べたいがこれから乗るバスも14:10の発車なので時間が無い。
 
 駅の下に設けられた売店。地元産の菓子があったので気になった一品をお買い上げ。まもなく
 
 岩泉駅ゆきのバスが来る。小本の街、あまり意識していないけど岩泉町の区域である。
 小さなバスの乗客は地元の人が一人と自分の二人。地元の人は運転士と世間話をずっと続けている。地震の話、共通の知り合いの噂話などなど。小本の海岸線で津波にやられた商店街が小本駅近くに仮設で移ってくるらしい、なんてことも聞こえる。駅の売店は高いから売れなくなるんじゃないかと言う事が方言で交わされている。
 
 仮設住宅らしいプレハブが車窓を流れる。列車に乗っているだけでは分からないが小本も津波の被害にあったのだ。
 バスは小本川の流れに沿って山の中へと入ってゆく。時折みえる人家。この辺りまで来ると瓦屋根の家がなく、そのせいか見ただけでは地震の爪あとは感じさせない。
 
 地盤が緩めば崩れるのではないかと思われるような崖もそのままである。

 バスの中で先程買ったお菓子を食べてみる。
 
 「なまこぱん」と言う。買うときに「なまこ」ってあの「海鼠」ですか?と聞いたら「形が似ているから」と言う事だそうで、原材料に海鼠を使っている訳ではない。
 
 海鼠の形、確かに似ている。
 昔ながらの甘さを前面に出した焼菓子と言ったところ。甘すぎて一人で食べるには少々難儀。半分の量でよかったかなぁと思う。甘さがご馳走だった頃の名物だ。

 他の乗客が乗ってこないまま、バスは岩泉市街の手前で右に曲がる。噂話の続き。龍泉洞の観光客、団体バスはまるでこないが個人のお客さんで混んでいるそうだ。今の時期稼がないとダメだもんねぇなどと合いの手が入る。そういえばすれ違うクルマ、県外ナンバーが増えた。
 龍泉洞前で下車。高原のような涼しげな空気に大量の観光客。バスで30分弱走っただけなのに世界が変わる。世界は変わるがここも小本と同じ岩泉町。一度見学した事がある龍泉洞だが、折角来たので今日も見てゆく事にする。入洞料1,000円を支払う。見学の所要時間は1時間と表示。そんな掛かるか?と思わなくは無いが、中へ向かおう。
 
 入口から中に入ると途端に冷気に体を包まれる。洞窟の内部、気温は10度少々でしかない。寒いぐらいだ。混雑した洞窟を中へ中へと降りてゆく。以下写真には取り辛いけど辛うじて撮れたところを少々。
 
 
 照明が派手すぎるけど、照明がないと何も写らないし。。。。
 地底湖へと下る辺りから渋滞になる。前回来た時は綺麗で早うてガラアキ、眺めの素敵によい涼しい洞窟だったけどさすがにお盆の時期。様相が違う。普段の観光地なら空いている方が望ましいが、岩泉町の置かれた立場を鑑みれば、この混雑は喜ばしい。地底の階段路に並ばされて「喜ばしい」なんて言うのは変だが。
 地底湖へと下る辺りから渋滞になる。前回来た時は綺麗で早うてガラアキ、眺めの素敵によい涼しい洞窟だったけどさすがにお盆の時期。様相が違う。普段の観光地なら空いている方が望ましいが、岩泉町の置かれた立場を鑑みれば、この混雑は喜ばしい。地底の階段路に並ばされて「喜ばしい」なんて言うのは変だが。
 第三地底湖から先、階段によるアップダウンがあってここが渋滞する。一段登って暫く待ち、もう一段登ってまた待ってという調子。なるほど、これだと1時間掛かる。
 
 ようやく第一地底湖を見下ろす展望台に到着。まだまだアップダウンが続いて待ちながら待ちつつ先に進む事を繰り返す。外に戻ると15時半過ぎ。本当に1時間経っていた。
 11℃の世界から25℃の世界に戻ると暑さを覚える。
 ちゃんとした食事がまだだが、龍泉洞に思った以上に時間を取られたのと、先程のなまこぱんがお腹に溜まっているので昼食は見合わせ。その代わりではないが、
 
 
 龍泉洞の水、だろうか、が飲めるようになっていたので手持ちのペットボトルに汲んで飲んでみた。心地よい冷たさが体に染み入ってゆく。
 
 さて、盛岡に戻る。鉄道だけを見ていると不通の岩泉線代行バスで茂市に出て山田線となるだろうが、当然ながら時間が掛かるだろう。実はそのルートの乗り継ぎが成立するのかどうかチェックすらしてなかった。帰りは盛岡までバスで出る。
 
 龍泉洞前から盛岡駅前までJRの路線バスが出ている。国鉄の頃からの伝統的なルートだが、岩泉と盛岡を乗り通した事は無い。どんな所を通るのか予備知識もないまま、バスを待つことになる。
 バス停には10人ぐらいの先客がいる。観光客ばかりで自家用車で来たお客さんばかりと思っていた龍泉洞の観光客の中に、ほんの僅かではあっても公共交通機関で行動する人がいたと言う事になる。鉄っぽい人もいるが、家族連れが2組。少々驚く。
 
 バスがやってくる。高速バスと言いたくなるが、言っていいのかどうかはこの先、盛岡までの2時間半が経った後で考える。定刻の16時になってバスは出発。まずは岩泉の市街地へと向かう。その市街地。
 
 バス停毎に荷物の大きなお客さんが待っている。見送りの人もいるから帰省客のUターンだ。お盆ならではの景色が繰り広げられる。
 国鉄時代から続くJRの路線バスだが岩泉駅は寄らずに通り過ぎる。暫くの間、線路と絡みつつ山道を行く。
 
 列車に乗っているとか細いとしか思えない岩泉線のレールも、道路から見ると想像以上に堂々としている。この線路が山々を貫いている様子を目の前で見ると、このレールを捲るのは勿体無いと思えてくるのだけど、実際どうなるのだろう。地震さえなければお金を掛けて復旧したかも知れないが、さて、さて。
 
 茂市を経て宮古に向かう岩泉線と付き合っていると盛岡が遠ざかるので、バスは線路と袂を分かつ。ここから先は地図でしか見たことのない北上山地。奥深くへと歩みを進める。Uターンのお客さんは2人、3人と乗ってきて、バスの乗客はいつの間にか30人を越えたようだ。
 山道ではあっても立派な道路がずっと続く。50km/hの制限を守って走るバスを時折クルマが思い切りぬいて行く。道路に沿う川の流れはバスの向きと逆方向。まだまだ登り坂が続く事になる。
 運転席から無線が洩れ聞こえる。現在地どこ?とか先に入ってとか、そんな会話が交わされる。そして三叉路が現れる。バスは躊躇なくその細いほうへと歩みを進めた。
 
 ずいぶんと狭い道だが、昔からの道路に違いない。路線免許の関係なのか、集落との関係なのか、新しい道路が出来てそちらがメインルートになっても路線バスは昔からの道を丹念に辿る光景には時々出くわす。
 
 そして、その狭い道の途中で盛岡からのバスとすれ違い。どうやら先程の無線の相手のようだ。バスがすれ違い出来る場所で出くわすように摺り合わせていたに違いない。
 龍泉洞から一時間が経った所で道の駅があって5分休憩となった。1時間経ってもまだ岩泉町を抜けていない。海岸沿いの小本だって岩泉町だった。いったいどれだけ広いのか。
 
 「道の駅 三田貝分校」。元々学校だったのだろうか。道の駅の建物の背後に古びた体育館が見えている。
 
 逆光だったがバスも一応押さえておく。
 休憩5分は少々慌しく、全員が戻ってきた頃には若干の時間オーバー。バスは更に山道を登る事になる。
 夏の日も山に隠れがちになり、あたりは日暮れの様相。時折現れるささやかな人里を眺めているうちに段々眠くなってきた。朝が早かったり洞窟を歩いたり。居眠りの要素はいろいろとある。
 ダム湖をちらっと眺めた記憶がある。次に目を覚ました時は17:40、バスは急勾配を下っていた。
 
 すっかり薄暗い中。木々の合間から遠く盛岡の盆地が見えている。岩泉からの登りは緩々だったが、この下り坂は転げ落ちると言いたくなる程の坂道。バスは慎重に慎重にと下って行く。
 だんだん人の気配が漂うようになってきてどうやら盛岡の郊外まで戻ってきたようだ。道路が始めて2車線になる。坂が緩んで人家が目立つようになる。バス停がJRバスのものから岩手県交通にものに代わる。すれ違う車も増えた。
 バイパスから昔ながらの狭い道に入り込む。もう盛岡の市内。山田線のかぼそい線路を踏切で渡ると大きな建物も増えてくる。降車ボタンが押される事も増えてきた。あくまで路線バスなので盛岡市内からでも乗っていいようなのだが、ちょっと前を岩手県交通の路線バスが走っているからか、乗ってくるお客さんは見当たらない。
 盛岡城址の石垣を眺め、開運橋を渡ると盛岡駅前到着となる。
 
 運賃表は64番までいった。高速バスと見せかけてこの辺りの扱い、長距離路線バスといった風情。運賃は後払いなので岩泉からのお客さんは2000円以上の支払いを降りる時にする事になる。
 
 駅前について降車。30人以上お客さんが居て両替やら何やら。最後のお客さんを降ろすまで長々時間が掛かった。
 午前中のうちにチェックインだけ済ませていたホテルに入る。今日は安さで選んだのでそれ相応の狭い部屋。寝るだけなら良いけど過ごすには不向きだったから、飲みに行く事にする。まぁ、ホテルが快適な部屋でも飲みに行く事には変わらないだろうけど。
 店は知らないけど、郷土料理で検索して評判の良さそうな所にまずは行ってみる。入れなかったら、そのとき考える事にして開運橋を市街地へ。
 
 カウンタに通してもらえた。2人組に挟まれて居心地は良くないけど、最初から断られるよりはずっと、良い。
 店の人、忙しそうで、中々注文を聞いてもらえないのだけど、とりあえず飲み物を。
 
 地ビールと言うには有名な銀河高原ビールヴァイツェンを頂く。甘み豊かな味わい。東京でも飲めるだろうが、地元だから。
 次は食べ物なのだが、メニューに掲載したもの、食べたい物がみんな在庫なし。そして店の人を捕まえるのに一苦労。だいぶ経ってようやく。
 
 普通の冷やっこよりも高い特やっこ。滑らかな豆腐が舌の上で溶けてゆく感じ。
 
 「今日のおひたし」と言うメニュー。「ほうれん草かな」と出されたけど食べてみるとモロヘイヤ。秋田や岩手では割と流通しているけど東京ではお目にかかったことが無い。懐かしさを感じながら頂く。
 
 ビールが無くなってだいぶ経ってからドリンクの注文が通る。岩手の地酒に切り替え。三陸鉄道の中で広告を見かけた釜石の浜千鳥があったのでそれを頂く。
 
 身欠きにしんと蕗の煮物。東北の煮物の割りに薄味で上品。
 
 ビス天。ビスケットの天ぷらだそうだ。沢内町では常食するそうだけど、こんなの初めて見た。酒のつまみになるかどうかは別として意外と食べられる。
 慌しい店の中。新幹線に間に合わないから会計を急いでなんてお客さんが何組かいる。今日のうちに帰京というのが大きな流れなのだろうか。20時半を過ぎてだいぶ大人しくなってきた。
 カウンタも相客が入れ替わって一人旅の人と自然に会話が始まるようになった。バイクで埼玉から盛岡、三陸を廻るのだそうだ。日本酒も1杯、もう1杯と飲んでしまい、気が付いたら22時半になってた。
 明日も早いので互いの旅行、安全と幸運を祈り、先にお暇頂いてホテルに戻る。明日のアラームをセットしようとして乗るべき列車の時刻を調べて驚いた。5:40過ぎだと思っていた列車の発車時間、5:22である。4:30過ぎには起きねばならない。起きれなかった時の第二案、考えなきゃなぁと思ったが、さっさと寝た方が間違いない。起きれなかった時の事は明日考える事にして、今日はさっさと就寝。

サイトアップ アクセスカウンタ

 サイトアップはお休み
 アクセスカウンタはチェックせず
 万歩計は8,589  える事にして、今日はさっさと就寝。