アラームに眠りを破られる。何時?と思うと4時過ぎ。眠いが今日は出掛ける予定がある、無理無理起きる。
昨日のうちにある程度の準備は出来ている。残念なことが一つ、スマホの充電を忘れている。身支度の間に充電。始発に間に合うように家を出る。
空は曇っているようだ。それでも寒い朝。路面が少々濡れている。昨晩ちらっと雨が降ったが、その名残だろうか。
膳所駅まで来る。下りホームに降りて少々。外内両方の接近表示が灯る。先に通過の案内があって、続いて到着の案内。ほぼほぼ同時に列車と電車が来る。
列車は2063列車。EF66-123号機牽引。こちらの通過を見て始発電車に乗る。
今日は伊丹空港まで。京都駅からバスが順路だろうが、ポイントに吊られて大阪まで引っ張る。大阪から阪急にしようか、新大阪からリムジンバスにしようか、高槻で阪急に乗り換えるか、色々と選択肢があり、結局新大阪下車を選ぶ。のだが、
リムジンバス乗場、雰囲気が違う。あれっと思うと
バスの始発、6:30と出ている。ダイヤが変わったのか。6:30まで待っても飛行機には間に合うけど、寒い中、30分を過ごすのも気が乗らない。
今から改めて大阪まで行っても6:15の阪急には間に合うだろうし、何なら南方まで歩いても良いけど、結局千里中央経由にする。何か中途半端な事をやってしまった。
馴染みが無い大阪メトロ車に乗る。行先は箕面萱野。千里中央から二駅延伸しているのだが、この開業区間、まだ乗っていない。
いい機会なんだろうけど、さすがに箕面萱野までを往復してから空港へ行く余裕はない。千里中央で乗り換え、千里中央6:24というモノレール、高槻で阪急に乗り換えていたらもう1本早かっただろうか。
空港到着。改札を抜けると370円引かれる。千里中央でも400円少々引かれた筈。下手こいたなぁと思いつつターミナルへ向かう。
京都からのバスに遅れる事、15分。伊丹空港到着。今日は7:25のJL104だから、余裕はある。
満席を示す案内の割には1階の搭乗手続きは空いている。2階まで上がると保安検査が混んでいて、今日の状況を知る。荷物の預かりが自動化されたりして混雑が緩和したけど、検査は相変わらずと言う事らしい。上級会員専用検査場のありがたさを知る事になる。
ラウンジに。時間は少々ある。
軽食を頂き、スマホは充電。
7:05出発のJL102、搭乗橋が離れてゆく。そろそろ104便も搭乗が始まる頃。今日は少しゆっくり、コーヒーを頂いてから席を立つ。
JL104 JA848J B787-8 ITM→HND
出発15分前に搭乗口へ向かう。待っているのはJA848J。搭乗口には既に行列は無くなっている。機内へ進む。ドアのところも空いている。今日は予約の段階からクラスJにしている。座席に落ち着く。窓が雨粒で濡れている。7:20 Door close。乗務員の紹介があった後、羽田までの飛行時間は40分と告げられる。7:24 Pushbuck。7:29Taxing。
地上係員に見送られて曇り空の伊丹空港を南に。飛行時間が短いため飲み物は冷たい物に限る旨、お詫びと共に伝えられる。7:37Take off RWy32L。
上昇する間に街が霞み、消えてゆく。伊丹を半周する間に雲の上へ。更に上空にも雲が重なる。青空が広がると、7:44ベルト着用サイン消灯、目の前のカーテンが閉じられる。
雲海を見つつ飛行機は東に向かう。間もなく飲み物のサービスが廻って来る。先程案内があった通り冷たいものからスカイタイムを。
カップを渡される時に何時もありがとうございますと。時間に限りがある伊丹-羽田では珍しい。
雲海が切れてくる。遠く富士山が見える。どうやら浜名湖の辺りらしい。大井川と静岡空港が見えて、そして富士山。
駿河湾に差し掛かった7:59 7分後にサイン点灯する旨の案内が流れる。
伊豆半島まで飛んでくると、また雲が沸く。相模湾は見えないままに東へ。8:05ベルトサイン点灯。雲が切れると房総半島が見えてくる。外房から内房へと廻り込む。
半島の先端、洲崎のあたりを左手に見て東京湾に。白波が立っていて風の強さが伝わってくる。
ちょっと大きく廻った感があるが、三浦半島が見えて来て東京湾沿いに北上する。遠く横浜を見て飛行機は降下。左に旋回すると羽田空港への最終コースになる。川崎の工業地帯が近寄ってきて8:22 Landing RWy34L。減速して誘導路へ。随分と早い到着。16番ゲートに到着する旨が告げられて、飛行時間短く充分なサービスが出来なかったことお詫びされる。空港周辺は気温8℃との事。
一旦停止停止する。スポットが空いていないのだろうなぁと想像できる状況。暫く動かないまま、8:33、機長さんから状況の案内。16番ゲートが前便使用中との事。前便の出発は8:45出発見込んでおり、その後の到着となる見込みだそうだ。お詫びで締められた挨拶。早着あるあるだが、ちょっと運がない。8:37になって動き出す。動いたり停まったりを繰り返しながら、ジリジリ移動。出発用の誘導路に逃げたりしてじわじわ、緩々、16番ゲートを目指す。
前便が姿を消したスポットが見えてくるとそのまま真っすぐ。8:43 Spot in SP16。結局、定刻より少し遅れたぐらい、か。
準備が整い降機する。乗り継ぎ案内には国際線と並んで「小松」の文字があった。人の事は笑えない。自分もちょっと前にやった記憶がある。
ここまで乗って来たJA848Jを見てから制限エリアの外へ。だいぶ待たされ遅れた感があるが、公式には定刻8:40に対して8:43の到着。ほぼ定時という結果であった。
今日の空路は羽田でおしまい。街に出る。キリキリ歩いたので8:54という京急に間に合う。先日、102便で羽田ン着て乗った京急はがら空きだったが、30分程遅くなった京急は混んでいる。もう既に各地からの始発便が羽田に到着した時間ではある。
21N運用7831編成で品川まで立ち通し。さらに今日は
東海道線の上り電車に乗る。混んではいたが新橋、東京と降りる一方。そして郊外ゆきの電車は空いてくる。ボックス席で少々の間、京王線恥辱をまとめておく。
10時に大宮到着。今日は鉄道博物館を見てゆく。
言わずと知れた施設だが、今まで未訪。開業したての頃は混雑が落ち着いたら行こうと思っていて、そのうちに転勤で膳所に引っ越し、さらにはコロナになってという調子で行く機会を逸してしまった。なのだが、この期に及んで訪ねる気になったのは
この企画展を見たかったから。そして一番背中を押してくれたのは
この記事だった。白鳥と日本海の並び。こんなのが2024年に見れるの?と心躍った次第。どちらも何度となく乗り、飽く事なく見て来た列車。その二つが並ぶ姿は一度だけ見た事が有る。1988年の9月。来日していたオリエント急行が秋田を通るというので、夜の秋田駅まで見に行った事が有る。その時に、下り白鳥が2番線、上り日本海82号が3番線にという景色。日本海は臨時便で20系だった。ナハネフ22の優美な姿の脇を、485系の白鳥が駆けてゆく。その後にきたオリエント急行よりも印象に残った。
36年後の冬。その景色に再び会いに大宮の駅から北へと歩く。ニューシャトルで3分、なんて看板が見えて、あぁそうかと思ったが、36年のことを思うと徒歩15分でも全く持って構わない、今日の大宮、北からの強く冷たい風が吹いている。その風に逆らいながら歩くことしばし、クリームと赤の特急色が見えて、何となくらしくなる。鉄道博物館到着。
土曜日だが、開館してだいぶ経つからまぁ落ち着いていた。入口の手前でまず
東北新幹線の時刻表がタイルに印刷されていてニヤリとする。大宮開業、上野開業、東京開業、と節目節目のダイヤである。ここで気を取られていては先に進まなくなる。
さて入場。まずは白鳥と日本海に会いたい。その後で他の施設や展示を見る事にする。のだが、遠くから見てもあれっと思う。何か違う。
そこにいたのはトワイライトエクスプレスとスーパーかがやき、だった。見たかったのは、これじゃない。
何とも落ち込む。今日、この後どうしようかと本気で凹む。帰ろうかとも思ってしまう。時間は割いているし、まだ何も展示を見ていないので、帰るという選択肢は無いのだけど。
ひとまず、他を見て回る。
とき、ゆのくに、かがやきと並ぶと自分の世界からちょっと外れた北陸線、信越線の世界に見えて来る。ナハネフ22は北陸になっていたから、ますます北陸感が強くなる。
ED75がトワイライトエクスプレスを牽引した事、あったのだろうか。1990年代の時点で敦賀機関区のEF81が大阪-青森を通しで担当していたから、よほどのトラブルが無いとED75の出番は無かった筈。広い意味で言うとED75-700は一部が津軽海峡線向けのED79に改造されたから、ED75-775号機の仲間はトワイライトエクスプレスを幾度となく牽引はしている。
見るべき車両は色々とあるのだが、スイッチが入らない。企画展を見て行こうかと思って2階に上がったが、どうやら場所を間違えた様子。南館の方に行ってしまう。
こちらには400系、E5系と共に、209系の先頭部を切り取ったシミュレータと思しきものが鎮座している。400系は大学受験で上京する際に初めて乗った。秋田から東京に出るのに1993年春の主流は当然ながら田沢湖線経由で盛岡に出るルートだったが、前年に開業した山形新幹線を経験してみたく、秋田から特急こまくさ、そして山形に取られたつばさと言う名の新幹線に乗り換えて上京したのだった。
400系も途中で塗装が変わったが、ガンメタリックの400系が登場した時のインパクトは強烈だった。それにしてもこの車両、本物かしら?と思ったのだが
こんな銘板が付いていたから本物と知る。JRの負担を減らすため、車両を保有する事が目的の第三セクターが設立されたのだ。奥まった所なので実運用時にはこんな銘板、目にする機会が無かった。博物館ならではの見どころである。
209系も縁深い電車である。1993年登場の頃はちらっとしか見ていないが、1997年に就職すると通勤時にお世話になるようになった。京浜東北根岸線から撤退した日も知っている。
先程から懐かしい物を見て、古い出来事を思い出していると、白鳥と日本海が見れなかったショックも少し和らぐ。もう少し見て回る。南館の3階、歴史ゾーンへ。こちらは車両展示と違って、お子様の姿は疎ら。落ち着いて見学できる。
明治の鉄道開業の頃からの150年を振り返る展示。
思いっ切り地元が展示されている。こうしてみると当時の馬場、今の膳所は日本で最初のスイッチバック式の駅だったのか。大津市街地、意外と起伏があって、浜大津から直接大谷に行こうとすると結構な登り坂になる。琵琶湖岸の石場から馬場に向けてもそれなりに登り坂。今でこそ、京阪電車が難なく登るけど、当時の蒸気機関車には大変な道だったに違いない。
展示は戦前、戦中を経て、戦後へと向かう。
一つ一つ紹介していたらキリがないのだが、段々と知っている時代になってゆく。
1980年までくると薄らぼんやり知っている事も出て来る。国鉄分割民営化に関する展示も並ぶ。そういえば、どの組合かは分からないけど、国鉄分割民営化に反対する署名を集めています、って自宅まで訪問してきた事があった。
その分割民営化となった1987年3月。謝恩フリーきっぷが展示されている。小学校から中学校に上がる所で、子供半額が使えたから小学生のお小遣いでも全線フリーきっぷを買えた。販売枚数に制限があって主要駅でのみの販売だった筈。3月21日だったか、秋田駅で並んで買い求めた事を思い出す。買った後なのか、買う前に整理券を貰ったのか忘れたが、駅構内で日本海81号を見た覚えがある。せっかくの国鉄全線1日乗車券で、31日夜の夜行列車に乗れば、継続乗車船で4月1日まで使えた。そんな人も多かっただろうが、小学生の身ではさすがに無理だし許されなかった。親と交渉したのかしなかったのか忘れたが、当日の行程はよく覚えている。秋田から特急たざわで盛岡に出て、花輪線に乗り、大館からは小坂鉄道を往復して、最後は急行津軽で秋田に戻るという行程。特急たざわは多客が想定されたのか、8両だったかに増結していたと記憶している。当時は3両または5両が標準だったと思うが、1ユニット、モハ484、モハ485のペアを付け、さらにサロ481まで突っ込んでだったと思う。サロは普通車自由席扱いだったから、喜んで乗ったと思う。既に30年経っているから時効だろうが、車掌さんが最後尾の運転台に入れてくれた事も良い思い出である。現業機関に自由に入れる、という時代ではなくなっていたが、まだまだ大らかな時代だった。
あらっ、1988年のオリエント急行来日の展示もある。前述、白鳥と日本海の並びを秋田駅で見た時の主役はこちらである。秋口に来日して年末まで日本各地を走っていたが、夜に来たのは日本一周の時だったか。その後、上野-秋田往復なんてツアーをやった思うのだが、平日で学校があって見に行けなかったと思う。
展示が段々と自分の記憶と重なるようになると、見る方も気分が変わって来る。自分事として博物館を捉えると見学するにも熱が入って来る。
ギアが切り替わって改めて車両展示エリアに戻る。
貨物列車の展示エリアもある。冷蔵車、車掌車機能もあるから冷蔵緩急車、と呼べばいいのか。地元は冷蔵車が走るような線では無かったから現役当時の事は知らないが、コンテナ緩急車はいくらでも見た記憶がある。勿論、遠くから見るだけで、車掌車の中身がどうなっているのか、見た事はない。貨物列車に関心を持って眺めるようになった頃には貨物列車への車掌の乗務は無くなっていた。独立した緩急車は既に貨物列車から外れていた。でもコンテナ車に組み込まれた緩急車は引き続き運用していた覚えがある。既に車掌の乗務は無かったから、カーテンを閉じていたと思う。だから、その室内を見た覚えは全くない。
全く見る機会が無かった車掌室。
こんな感じなのねぇ。第三者の目線で見ると隠れ家的で楽しそう、旅客列車の車掌室より広い、何て感じでポジティブな感想がポンポン出て来るが、空調は無いし、乗り心地は悪いし、労働環境は悪かった様子。
冷蔵車、その先のコンテナ車の向こう、先頭にはEF66-11号機が立っている。高速貨物専用機、というEF66の生い立ちを直接物語るような展示内容。
ED75-775号機の2位側に出る。先程よりは落ち着いてじっくり見る事がで見る。
ナンバープレートを見る。単なる英数字の組み合わせなんだけど、
こちらも単なる「秋」という漢字なんだけど。何でこんなに気分が上がるかね。
でも、こんな場面は現役時代には無かったと思うんだよなぁ。絶対とは言い切れないけど。トワイライトエクスプレスは秋田県内の通過は真夜中だったので、なかなか見る機会が無かった。
隣のクハ481、モハ484のペアを見る。こちらもプレス公開では白鳥のヘッドマークを付けていたが、スーパーかがやきに変わっている。かがやきは専用車が用意されていた筈だが、代走用としてボンネット型用のヘッドマークも準備されていたようだ。係員によると今週、水曜日から変わったとの事。この先も何とか変わるらしい。
車内には転換クロスシートが並んでいる。秋田周辺の485系は1000番台か1500番台が殆どで、簡易リクライニングシートだった。同じモケットの座席でもちょっと雰囲気が違う。違いを見てゆくとキリがないが、当時の国鉄特急に漂っていた空気は良く伝わる。
そして車端に掲示されているポスターにはにやっとする。一つ一つ芸が細かい。青函船舶鉄道管理局、という広告主が懐かしく、好ましい。
ブルートレインは元祖ともいうべき20系が展示されている。方向幕は元祖寝台特急というべきあさかぜのもの、東京-博多を示している。
そういえば博多の街にもナハネフ22が展示されている。
ナハネフ22の車内、すべてではないが見学できるようになっている。
中段寝台を解体した昼間の運用状態での展示。6人掛けのコンパート、という事になる。20系寝台車も一度乗ったことがある。上野と秋田を結ぶ急行天の川だった。
幼い頃だったのだが、52㎝という寝台では親子で添い寝とはならず、1つ寝台を取って貰ったのではないかと思う。狭い寝台だが、何せ小学校に上がる前。全く気にならず、夜遅かったことも相まって、良く寝たような気がする。
ナハネフ22ならではの展望室を見る。天の川の最後尾は貫通式のナハネフ23であったから、この時には見ていない。実車で見たのは前述の臨時設定された日本海81,82号。そして日本海から格下げされた急行あおもりぐらいだろうか。乗る機会には恵まれなかった。あと1~2年早く生まれていれば、最末期の20系に乗る機会はあったかも知れない。
展望室の向こうにEF58が姿を見せている。そのEF58-89号機を見る。
自分の世代と被ってはいるが、直流機にはそこまで思い入れがないのよね。秋田に居た頃は全く縁が無かったし、上京した後は撮りに行けば撮れたんだろうけど、こういうネタ列車を追いかけるより、日常を撮る方が好みだったので。
こちらもそういう位置付け。EF55-1号機。それこそ2000年代初頭までイベントに活躍していたから、見に行こうと思えば、いつでも見に行けた機関車ではある。勿論、興味はあるが、興味よりも撮影時の混雑やらトラブルやら、そんな事の億劫さが勝つ。
展示車両。もう少し時代を遡る。
キハ41307。30数両展示されている鉄道博物館だが、車両ステーションに展示されている気動車はこの1両だけ。神田にあった交通博物館時代は鉄道創業以来の蒸気機関車が展示の中心で、近代化を進める昭和世代の車両保存は弁天町にあった交通科学館の役目だったからか、気動車、ディーゼル機関車の展示は妙に少ない。展示に値する車両はいくらでもあるだろうにと思ったが、後になって屋外にキハ11、DD13が展示されていた事に気が付いた。
いわゆる旧型国電からはクモハ40が展示されている。少々物足りないが、名古屋にクモハ52、モハ63、クモハ12。京都にクハ86がいるから、3館まとめて、何とか何とか体裁が整う所か。
当然ながら新幹線も展示されている。東北新幹線の200系。小学校の修学旅行だったり、大学進学の際の上京だったりに乗った車両だ。就職後も出張で何度か乗った。
車内は何度も改装されていて、引退する頃の座席になっている。できれば、登場当時の姿を見たいが、仕方ないか。でも
0系は転換クロスで残されているのよね。200系が2006年の廃車後、すぐに博物館入りしたのに対し、0系は1978年の廃車後、鉄道学園の研修用として使われたのち、2010年に博物館入りしたという経緯の差ではあり、やむを得ないといったらやむを得ない。まぁ、改装後の姿も、生きて来た証ではある。
200系は屋根上だけでなく、床下も見学できるようになっている。駆動装置のフィンが物々しい。
12時になり、転車台に乗るC57-135が一周するイベントが行われる。一周する間、3回、汽笛を鳴らす。蒸気機関車の汽笛、
で聞いた通りの大きな音が容赦なく鳴り響く。過去には苦情でもあったか、汽笛を鳴らす前の注意喚起、小さなお子様連れの方、大きな音が苦手な方はご注意くださいと、いう調子に。これでもかというぐらいに行われる。
さて、時刻は12時半を廻っている。そろそろ食事と思うが、その前に企画展をいい加減見ておこうと思う。
企画展、展示は撮影禁止との事でみるだけとなる。どこか取材と思しき人達がいたがどうやら
この記事だったみたい。展示は北陸線、信越線、羽越・奥羽線の3ゾーンに分けて、歴史を紹介したり、写真を紹介したりというのが中心。中には白鳥のヘッドマークが飾られたりしているが、この手の物が並ぶのはデスマスクに見えて来るから少々居たたまれなくなる。
特急白鳥が登場した1961年10月改正時の能生騒動も紹介されている。金沢鉄道管理局は白鳥が客扱いとして停車すると認識していて、本社サイドとのコミュニケーションの悪いさが一因である旨、紹介されていたりして新しい発見がある。全体的にウェイトは北陸5、信越3、羽越・奥羽2、ぐらいだろうか。個人的には若干物足りなさは残る。
時刻は13時近くになっている。そろそろ昼食と思うのだが、その前にてっぱく大学が13時から、と呼び込み。何となく入ってみる。入門編でお題は「信号と標識のいろいろ」。1時間少々だったが飽きずに話を聞ける。お題目によってはてっぱく大学を目的に来館しても良いかも知れない。とは言え、大宮は通うには少々遠いか。
時刻は14時になる。いい加減、昼食を取る時間だが、てっぱく大学の会場、シアターの隣がコレクションギャラリーになっている。折角なので覗いてみる。
あらっ、コンコルド。
交通博物館で展示されていたものだが、無事、鉄道博物館に引き継がれたのね。
いい加減、食事と思い何となく南側へ。途中、車両展示エリアを通るのだが、まだまだしっかり見ていない車両がたくさんある。
マイテ39、1等展望車が展示されている。さすがに車内は立ち入る事は出来ないが、展望デッキには立つ事が出来、車内を見る事はできる。走るファーストクラスラウンジ、と思ってしまったが、こちらの方が元祖で本家。現代と違い階級社会であっただろうし、1等車に脚を踏み入れる機会なんて、まず恵まれなかったに違いない。割と気軽にファーストクラスラウンジを使え、頑張ればファーストクラスに乗れなくはない現代は、何だかんだといい時代ではある。
さぁ、食事。鉄道博物館といったら一度はハチクマライスを食べておきたい。食堂車を連結している列車で乗務員向けに提供される、まかないのような食事。ご飯の上にハムエッグを乗せて福神漬けを添える程度の簡単な食事と理解している。鉄道ジャーナル誌の列車追跡なんかで読んだような気がする。
賄い食としてのハチクマライスは、八つぁん熊さんでも気軽に食べられるというお値段が特徴であった筈だが、現代のハチクマライスは単体¥1,080、ドリンクセット¥1,300という一人前の値段。5分ぐらいで供されたハチクマライスには
ハムエッグだけでなく、ハンバーグや唐揚げまで載る豪華版。ロコモコ丼の方に寄せている感がある。お米もきっと現代の方が旨いに違いない。
食事の間に、転車台イベントの告知。15時からC57が一周し、汽笛を鳴らすそうだ。今度は2階から見てみる。転車台の通路が閉鎖され、機関士が乗り込み、イベント開始。
MCがC57-135号機の生い立ちを紹介しつつ、転車台が回転。、
館内に汽笛が鳴り響く。何なら空気が震える事も分かる。空気の震えは室内ならではの体験で、蒸気機関車牽引の列車に乗っていては感じられない。
まだまだ見ていない所があるので、館内を廻る。クハ481の後ろ、モハ484の脇に上へ昇る階段がある事に気が付く。
パンタグラフと交直切替器が見えるようになっている。15時半から交直切替の実演をするとの事で見てゆく。パンタグラフ-空気遮断器-交直切替器というツナギになっていて、切替時は空気遮断器で主回路を切ってから、交流の回路と直流の回路を繋ぎ変えるという順番。空気遮断器の動作時に圧力空気を吹きかけるので結構な音が鳴る。動作させる前、廻りの人達に大きな音が鳴ります!って注意喚起してからの動作。動作は一瞬、圧力空気の吹き出す音の方が派手。そして交直切替器が動作するのだが、電圧が印加されていないので、こちらは本当に地味な動き。それにしても交直流電車、交直流電機って何度もお世話になっていたが、切り替えをどうしているのか何て考えた事が無かった。
モハ484の交直切替がなかなか楽しく、しっかり30分近く見てしまった。もう時刻は16時になっている。お子様が多かった車両展示エリアも、人が少なくなり、つまり写真が撮りやすくなっている。最後にもう少し撮っとく。
改めて転車台の廻りを囲む昭和の電車たちを。クハ181の特急とき、クハ455の急行ゆのくに、クハ481の特急スーパーかがやき。
後日展示に加えられたからか、車両展示エリアとは別に佇むロイヤルエンジン、EF58-61号機。
昼間は日の廻りと影で撮りづらかった屋外車両も何気に撮りやすくなっていた。座席数MAXのE1系を眺めて
ランチトレインとして活躍する、つまり、ちょっと雑に扱われている183系を見て、そろそろお暇頂く。時刻は16時半を過ぎ、日が傾いている。結局、この一日、自分の見て来た歴史に触れた事になる。色々と思い出す事もあった。仮に10年後、勤め上げれば定年となる頃に今回の展示を見たら、どんな感情を持つだろうか。そんな事を思いつつ、ED75-775号機とお別れする。
すっかり暗くなった大宮の街。寒風吹く中を駅へと向かう。都内へ戻るべく駅構内へ。来る時と同じ道は避けたく、とはいえ遠回りする程の気力も無いので
地下ホームに赴き埼京線。1770KはE233系136編成に乗る。鉄博帰りらしい親子連れなんかも乗る中、時折新幹線とすれ違い、追い越されて都内へ。赤羽まで。さらに都内は東側に行きたいので
京浜東北線に乗り換える。やはり、来る時と微妙に道を分けている。この時間の電車は空いている。都内に戻ると18時を廻っている。来る時と同じく、空路で戻るのであればちょっと遅い時間。元々、この後は忘年会を調整していたが、都合がうまく合わなかったので、一人飲みに切り替えている。膳所に戻っても良いんだけど、ホテルと航空券は手配済。折角なので行ってみたい店に入ってみる。
京浜東北線を新橋で降りる。歩いて少々。電車は空いていたが、街は混んでいる。そして煌びやか。花の都、東京なんて言葉が頭に浮かぶ。
着いたのは、こちら。
銀座ライオンのフラッグシップ店、銀座7丁目店。時刻は18時半なのだが、店の前に行列が出来ている。一つ前のグループは外国人らしい。
並ぶ事しばし、19時を過ぎて店内に案内される。
並ぶ事しばし、19時を過ぎて店内に案内される。
だいぶお預けを喰らった後の注文。まずは
1リットルの大ジョッキでサッポロ生ビール黒ラベルを頂く。ガス圧高めの黒ラベルは普段飲む黒ラベルとだいぶ違う印象。
食事が届く前に1リットルが空いてしまったので、追加で注文。
今度はパーフェクト黒ラベルにしてみる。注ぎ方が全く違うのか、柔らかいビールに生まれ変わる。
ついつい飲み過ぎた。ピッチも早くなった。大3杯とパーフェクトの小で4杯を50分で。いくら何でも速い。
時刻は20時前。まだまだ十分に膳所まで帰りつける時間だが、今日はホテルを予約している。銀座に泊るなら立派だが、宿泊費高騰の折、都心に泊るのはなかなか難しい。明日の事も考えて
京浜東北線で蒲田まで。1971A、E233系143編成で。今日のホテルに入る。一か月前の予約で1万円を大きく切る値段で予約出来ている。禁煙喫煙を選べないという条件で喫煙を宛がわれたけど。値段を考えると文句を言えない。
もっと飲める感じがするが、いい加減飲み過ぎである。二次会はホテルの自室で。途中足りなくなって買い出しに出る事になったけど。明日は早いが、そこそこ遅くまで飲みの続き。
サイトアップ アクセスカウンタ
サイトアップはお休み
アクセスカウンタは機能せず
万歩計は27,565