2021-04-18

 目を覚ますとテレビが付いたままだった。時刻は3時前。ビールが少々残ったままで、毛布もかぶっていない。途中寝落ちたらしい。改めて寝る。
 5時に改めて目覚ましが鳴った。ツアー旅行で来た秋田二日目の朝。天気予報では暴風雨なんて言葉が出ていたが

 この時間の秋田。雨は降っていない。空も思ったよりは明るい。雨雲レーダーを見ると降る時間もあるようだが、降りっぱなしではない様子。暴風雨に備えてポンチョぐらいは持ってきたのだが、どうなるか。
 ツアーの集合は9時なのだが、それまでにやりたいことが幾つかある。それら課題に臨むために早起きした。頭が重く明らかに二日酔いなのだが、仕方ない。鈍いが動く。
 ただ明らかに動きが鈍重で何となく乗ろうと思っていた始発の電車、明らかに間に合わない。色々と支度を進める間に甲高い汽笛が聞こえ、701系が出発してゆくのが見える。2番目の男鹿線もすぐに続くので、明らかに乗り遅れる。
 今日はまず、泉外旭川駅を見ておきたい。始発で行って少し廻りも見分して、と思っていたが、5時半前の電車、そう秋田でもすべて電車という言葉で片づけられるようになったのだ、が相次いで出てしまったので、次は6時過ぎ。それなら歩こうかと思い出す。幸い、雨は降っていない。
 経路を地図アプリで目星をつけたが、まぁ、知っている道の30年後の姿である。何とかなろうと歩きだす。ホテルを出て脇道を抜け、千秋トンネルへ。久保田城の下を貫くトンネルだ。子供の頃は長いトンネルと思っていたが、今日は案外と呆気なく抜ける。
 旭川沿いに進んでバス通りに移り、ちょっと行くと地下道がある。

 昔はこんな立派な名前、ついていなかったよなあ。
 上を通るのは奥羽本線秋田駅を出て2kmちょっと。秋田機関区、秋田操駅、秋田貨車区があったところだ。広大な敷地を横切る道路が4本あって、すべて地下道になっていた。機関区も貨車区も操駅の操にあたる機能も無くなったけど、地下道は依然そのままで残っている。
 今は天徳寺地下道と名乗る地下道は機関区のあたりにあって、地下道の途中、機関区に入れるよう道が分かれていた。その機関区へ続く道、残っていたけどロープが張られ、進入禁止になっている。
 地下道を上がると命名の由来。天徳寺の前になる。今日は時間が無いから寄れないけど、秋田20万石、佐竹家の菩提寺である。お国替えに伴って茨城から付いてきたお寺だ。小学校の時に写生大会で訪れた事がある。子供の時には比較対象がないから、冴えない寺だと思っていた。視野が広がった今となっては結構立派なものだ、さすが20万石と思う。今の地元、膳所藩にも菩提寺はあるが、6万石の菩提寺はずっと小さく、もっと冴えない。
 天徳寺までは行かずに機関区の自転車道に出る。今は機関区は無いから、単なる線路脇。ED75、EF81、DD51、DE10なんて面々が屯していた機関区だ。除雪車としてDE15のほかに、DD14、DD15もいた。冬になるとポイントの凍結を防ぐ蒸気が構内あちこちで立っていて、出動に備えて夜通しアイドリングしていたDD14のエンジン音がカラカラ響いていた。
 そんな感慨に浸っていると

 不意に駅が現れる。あっ、ここなのね。大体の場所は知っていたが、いざ駅を実見するとへぇと思う。機関区の外れ、操車場のヤードに切り替わるあたり。以前は機関区、操車場、貨車区と2kmに渡って続く間、上下線は離れていたのだが、国鉄分割民営化の際、必要なくなった操車場と貨車区の部分を整理し、下り線を移設する形で上り線に寄り添わせ、空いたエリアに貨物駅を再整備している。余った土地は再開発の対象になって住宅やら何やらになった筈。その上下線が近づく部分に駅が出来ている。
 泉と外旭川の合成駅名で泉外旭川。今は外旭川側にいるので、駅前の広場

 外旭川駅が出来たような錯覚を覚える名称。
 ゆっくり周りを見たいが時間があまりない。駅構内へ急ぐ。上下線が近づくところの駅だが、逆に言うと上下線は線路が離れている。

 その間には検修庫の跡が残っていた。機関区の上に駅が出来た様子を目の当たりにする。遺跡ってこうやって出来るのか、と妙な感慨を覚える。

 そんな訳で秋田駅から乗った筈の大館行き普通列車がやって来る。朝の6時に泉外旭川で降りる客は無く、自分の他に乗る客もない。まぁ、列車も空いている。今日は日曜日だ。

 泉外旭川から190円区間、という切符を握り、列車は秋田操駅だったエリアの北側、再開発で秋田貨物駅になっている部分を進んでゆく。土崎までわずか4分。早い早いと感心。
 土崎で下車。朝からもう1か所、見たいところがあった。土崎の駅からまっすぐ歩くと

 秋田港駅に行き当たる。
www.asahi.com
www.sankei.com
 3月12日で秋田港駅を発着する秋田臨海鉄道は営業廃止。接続線を喪った秋田港駅も13日改定で発着する貨物列車が消えている。その後の様子を見たくなった次第。

 相変わらず廃車になった機関車、客車が残されている。国鉄分割民営化の前後、用途廃止となった秋田操駅のヤード部分に大量の廃車が留置されていたことを思い出す。

 コンテナを載せた貨車が多少停まっている。こちらが廃車とは思えないのだが、時刻表から秋田港駅発着の列車は消えているので、単なる留置なのだろう。何れ本線に戻されるのか、よく分からない。
 少し歩く。

 秋田臨海鉄道の機関車が待機していたエリアからは機関車が消えている。でも
www.tetsudo.com
www.sakigake.jp
 こんな記事が出ていたから、機関庫の中に仕舞われているのだろう。しかし、秋田県民限定かぁ。分かるんだけど、辛い。

 秋田臨海鉄道南線の線路。廃線になり、踏切も廃止された。列車の来ない線路が物悲しい。
www.sakigake.jp
 かつて踏切だった場所、という言い回りも悲しい。
 港側まで回り込む。


 在りし日の名前がそのまま残っている。消されずに良かったね、と半分少々。散れ散れな感情が半分少々。一を超える分の想いが溢れる。

 真新しい駅舎はポートトレインを走らせるために設置された旅客ホーム。クルーズ船入港時を中心に秋田駅秋田港駅を結ぶ列車を走らせる、との事だったが、このコロナでクルーズ船の運航も無くなっている。しばらく秋田港線、秋田港駅は廃止扱いにせず様子見なのかも知れないが、扱い、考えあぐねているのかもしれない。
 さて、土崎の駅まで戻る。

 秋田行きの列車に乗って2駅、秋田まで。泉外旭川でも乗り降りがあった。
https://www.sakigake.jp/news/article/20210413AK0020/
 最近の記事によると秋田工高生の利用が多いとの事。確かに秋田駅からバスに乗るよりは、ここから歩いた方が早そうだ。
 秋田に戻る。7番線到着というのが久しぶり感がある。

 目の前に昨日も眺めたキハ40系列の休車が停まっている。そういえば土崎工場、今は秋田総合車両センターというのか、の場内にキハ40系列が大量に停まっていた。そちらも足を延ばせばよかったか。
 ひとまずホテルに戻った。朝食を頂く。今日の朝食会場、レストランが改装中とかで、宴会場が朝食会場と指定されている。そちらに赴く。

 会場が広いので、他人と接触を避ける、という点では申し分ない。

 メニューは正直、イマイチであった。改装中で対応しきれないからかも知れないけど、
https://akita.metropolitan.jp/info/BFbuffet_0119new.htmlakita.metropolitan.jp
>秋田の食材と野菜をメインにした、『クオーレ』こだわりの朝食ブッフェメニューのご紹介です。秋田郷土料理の数々をご堪能ください。
 何処に行った、秋田郷土料理の数々。。。。。
 時刻は8時。この時間、外は雨。昨日の宿題、金萬を駅構内に買いに出かけて部屋に戻り、荷造りをすると少し早めにチェックアウト。荷物は半分預かってもらい、集合場所の駅改札前に向かう。既に受け付けは始まっていた。秋田集合組の方が多く、仙台集合組は検温、体調確認の後、今日のチケットと資料一式を受け取ると手続き完了。先程受け取ったチケット相当の入出場証を提示して改札を通る。係員に2番線からの出発です、と声を掛けられる。2番線か、秋田駅玉座だった場所だ。
 今の玉座は知らんが、駅舎が高架に上がる前は、地上に改札があって外を出ると目の前が2番線だった。階段を昇り降りすることなく行き来できるが故、優等列車が優先的に宛がわれた所である。正確に言うと、配線の関係か、羽越線からの列車が多かったと思うが、白鳥、日本海なんて列車を2番線でよく見た印象が強い。

 そんな訳で1番線、2番線、ともに男鹿行きという今日午前9時の秋田駅。これからこの団体列車に乗る。
 2番線に赴く。駅構内営業関根屋さんが駅弁の立ち売りを出していたり、グッズの販売が出ていたり、駅員の姿も多く、いつになくわさわさしている。ついこまごまと買い求めてしまった。いい加減、やめておく。
 列車は秋田車両センターからやってくるようで、3番線にカメラの放列が出来始めている。とりあえずそちらに行く。3番線にも駅員の姿。黄色い線の内側に、と時折案内。すると違うオーラを纏った制服姿が現れる。駅長だった。注意喚起する訳でなく、駅のホーム端を歩くだけで言いたい事が伝わる。やっぱり県内トップ駅の長は違うなと思う。地方では駅長は名士だったことを思い出した。
 9:17、下り側から列車が入ってくる。

 男鹿線ありがとう40・48形の団体貸切列車。3月12日限りで秋鉄局管内から引退し、男鹿線からも撤退したキハ40、48が最後に団体専用列車として男鹿まで往復する、その列車に乗車する。
 発車までまだ30分程。一度指定された席にゆき、荷物を置いてからホームに戻る。

 ホームにはいつの間にかお見送りの看板が出ている。来週には今度は五能線能代を往復するツアーも設定されているが、男鹿線色で男鹿線キハ40・48と書かれているから、今日一日、このためだけに用意した看板っぽい。

 向かい側、3番線に見慣れない気動車が来ている。五能線に投入された電気式気動車、GV-E400系だ。五能線での運用が主だが、整備の拠点は秋田車両センターなので、入出場のため、東能代-秋田でも1日1往復している。そういえば五能線に専用塗装のワンマンカーが導入された時、1日1往復、東能代-秋田を、その専用塗装のキハ40が単行で行き来していた事を思い出した。しばらく停車していた後に発車したが、出発時のエンジン音は一人前に気動車だった。

 先程のお見送り看板が先頭キハ48の脇に移動している。カメラの集中砲火を浴びていた。惜しいのは停止位置。決まっているから仕方ないけど、もう10mぐらい手前に停まってくれれば、明るい所で撮れたのに。とは思う。
 団体列車だが、あくまで男鹿行き、という体裁。

 男鹿-秋田の行先表示が入っている。往年の秋田駅には行先表示の鉄板、いわゆるサボがホーム上に保管されていて、珍しくもなんとも無かった。50系客車もキハ58系もキハ40系も、みんなサボを使っていたから。でも使う列車もだんだん減り、行先のバリエーションも無くなって、この3月、キハ40系列の撤退で完全に過去の物になった。
podaka.hatenablog.com
 懐かしい鉄道の光景がまた一つ消えたが、コロナ禍前のバンコクファランポーンの駅構内で、同じような光景を見て、鉄道ってどこに行っても変わらないんだなと思った記憶がある。
 ホームをもう少し廻る。先程来の物販も好調のようだ。最初に見た時には無かったキハ40系種別幕レプリカなんてものが売っていて、レプリカで7000円もするのに、飛ぶように売れている。関根屋のブルゾンを着た人がにこやかに駅員にお礼を言っている。そりゃ、特需だろうなぁ。
 色々と歩き回り、様々な写真を撮ったが、割愛する。いい加減、車内に戻る。

 こちらが、今日のセット。この先の行程やらイベントの整理券やらがある。座席割は1ボックスに1人という割と贅沢なもの。仙台組は20人限定の筈だが、それを1両で使っている。残りの3両が秋田組の割り振りでこちらは定員60人の筈。
 席に落ち着き出発を待つ。間もなくドアが閉まる音。列車がゆっくりと動き出す。この非力さがキハ40。エンジン出力が重たい車体に見合わないから、昨今では有り得ない程に加速しない。ゆっくりと見送り組、撮影組が流れてゆく。秋田駅構内から本線を出て手形の陸橋を過ぎると何となく加速し始める。
 速度がようやく乗ってきて、旭川の橋梁を渡り、秋田工高が車窓を流れて、秋田機関区の跡地に差し掛かる頃、ようやくトップスピードまで出る。この非力さも、今となっては愛おしい。
 列車は男鹿までノンストップ、とは行かず速度を緩めると土崎に停まる。換気のためドアを開けるが、降りないで、と案内。数分停まる。何人か外から写真を撮る人にとってはボーナスみたいな時間。

 土崎でも横断幕を持ったお見送りを受ける。列車は右へとカーブ。秋田港線が分かれてゆくのが見えると秋田市の北郊を進む。速度が乗って上飯島の駅を通過する。時折、写真を撮る人がちらほら。雨の予報が何となく明るい曇り空。予報が外れて良かったねと思いつつ列車は進む。
 男鹿線分岐の追分でもドア扱い。数分後に発車となる。車内、男鹿線の歴史が案内される頃、鉄道防雪林の中、奥羽線と分岐してゆく。本来の男鹿線へ。沿線でも駅でもちらほら写真を撮る人に迎えられる。
 出戸浜は通過。これ、快速列車と同じ扱いだなぁと思う。自分が初めて男鹿線に乗ったのは小学校2年生の時。当時、男鹿線で活躍していたキハ40やキハ22ではなく、14系の客車列車、というトリッキーなもの。繁忙期に運転されていた上野発の夜行急行、おが3号が秋田から男鹿まで快速列車として運転されており、そちらに乗ったのだった。記憶ベースだが、秋田を出ると土崎に停まったか停まらなかったか、追分は停車していて、二田、脇本。そして終着の男鹿だったと思う。或いは羽立に停まったかどうか。。。
 列車は二田に停まる。やっぱり快速列車と同じ扱い。地元の人に手を振られて列車は出発する。緩々加速。速度に乗ると八郎潟干拓湖を渡る。カメラの放列。いかにも立派なカメラを持った人以外にもいろいろな人がいて、こちらに手を振る人も。
 船越を通過し、快速列車の停車駅、脇本は通過だった。すれ違い可能な駅なので、Y字の分岐線を渡って体を振り、もう一度二つの線路が合流する時に体を振ると加速する。

 寒風山が見えてくる。桜咲く春4月だが、田起こしはもうちょっと先。明るい雲の下、列車は脇本から羽立へ、ちょっとした峠を越える。桜の樹が見え、そちらと列車を絡めるらしい意図の人がカメラを向ける。
 海の気配がしてくると終着、男鹿となる。時刻通りの到着。架線の無い側のホームに到着。車内、イベントを行うので荷物をもって降車下さい、との事。

 秋田-男鹿なんて行先表示をつけて男鹿に着いたもので、ごくごく普通の日常列車、みたいな錯覚を抱くが今日が最後、キハ40系男鹿線最期の日。戻りの列車は15時。4時間程ある。幸い、この時間、雨は降っていない。


 駅舎2階が展望デッキになっている今日の男鹿駅。田舎の空港みたいだが、とりあえず二階から乗って来た列車を撮る。4両つないでいるとローカル線といえども良く映える。昔話をしだすと、もっと長かったけど、話も長くなるからやめよう。

 駅前にはヘッドマークや臨時列車のサボ、行先表示が展示されている。この中でも感激したのは秋田博の際に運転されたアッキー号のヘッドマーク。よく残っていたと称えたくなる。うっかり近くにいた係員に「よく残ってしましたね、子供の頃、乗りました」なんて声を掛けたら「社内にも資料が残っていないんです」って。国鉄秋田鉄道管理局の頃だからなぁ。話しぶりを聞くとアッキー君も知らないのかもと思ったが、ヲタ話で中の人を捕まえすぎるのはどうかと思い、やめておく。
 時間があるので駅の近くもちょっと見る。

 来る社内で男鹿線の歴史を車掌が案内した際に、船川港駅へと続く線路跡の事も触れていた。そちらがこちら。正確に言うと、再開発した際に弄っているらしいのだが、雰囲気は分かる。この辺りの船川港へと続く鉄路。しっかり覚えている訳ではなく、なんとなくの雰囲気をうっすらぐらいしか知らないので、あまり気にならなった。

 歴史を伝える案内も出ている。船川港への貨物列車。最後まで残っていたのは確か原油輸送だった。申川油田から原油が脇本から船川港まで列車で運ばれており、日本で最後まで残った原油輸送列車。残念な事にこの列車を見る機会は無かった。
ameblo.jp
 偉い人はいるもので、男鹿線原油列車、紹介してくれている人がいる。こちらを代わりに貼っておく。

 駅の近くでは桜も咲いている。秋田市内では既に散っていたが、ヒートアイランドと関係ない男鹿市内では今日が盛り。それでも例年と比べると早いと思う。秋田で桜、というと4月下旬に満開で通常、遅い年だと5月の連休にずれ込む事もある印象を持っていた。
 しかしあいにくの強風、時折ぱらっと来る雨で花は持っても今日が最後だろうか。今日の日に間に合ってよかったとは思う。
 参加者全員が対象のイベントが車内放送体験と運転席での記念撮影。順番に合わせて駅構内に戻る。放送マイクというには大振りな受話器の大型版、操作説明を受ける。釦を押す間は案内が車内に流れるそうだ。ぜひオルゴールも鳴らしたく、オルゴールの操作方法も聞く。意外と単純で先にオルゴールのダイヤル廻して、それから釦を押すとの事。ちなみに釦を押しながらオルゴールのダイヤルを廻ると、ギリギリ、というオルゴールのセット音が車内に流れるそうだ。
 目安は1分との事。案内の中にある例文を読んでも良いし「想いをぶつけて頂いても結構です」だって。まぁ、例文を無視して、おが3号、秋田到着のイメージでやってみる。
 秋田到着何番線だっけ?1988年の寝台急行おがは5番線だっただろうか、でも5番線は特急たざわの指定席だった気もするしなぁ、停車駅はどうだろうかと過去の記憶を反芻しつつ「あと5分で秋田に到着いたします。到着ホーム5番線、お出口右側です」乗換列車の案内はあるよなぁ、列車と時刻は必ず言うだろうけど1981年7月のダイヤなんて、そこまで頭に入っていないぞ、9時前の秋田って奥羽北線どんなだっけ、むつ3号は11:28だったが、その前はこまくさだろうか。面倒になって「羽越本線羽後本荘、酒田方面」と言ってしまったと思う、絶対奥羽本線の方が先だ。「引き続き奥羽本線東能代、大館方面のお客様はお乗り換えです」で誤魔化す。
 で、肝心のおが3号、停車駅は、、、「この列車は秋田から快速列車として男鹿まで参ります。秋田からの停車駅、追分、二田、脇本、終着、男鹿の順に停車いたします」土崎飛ばしは正当だっただろうか。でもこの時は秋田から乗ったと思うんだよなぁ。。。
 目安1分だったのでここでやめる。案内してくれた係の人に「やってました?」と聞かれたが、そんな訳は無い。当時を知る人が聞いていたらツッコミどころ満載だっただろうが、幸か不幸か、大多数の人は外にいるので聞いた人は少数だろう。80年代、秋田鉄道管理局時代を知る中の人も殆どいないらしい事も先程の会話で知った。言われてい見ると当たり前で、自分の会社を見ても80年代から在籍している人は、ごくごく限られている。
 しかし、今思うと急行おが3号、秋田到着は7番線だったかも知れない。

 運転席記念撮影に移動する途中、車内を撮影する。行き帰りでは撮れないから良い機会にはなる。

 こんな所も営業中には憚られる。今なら車内、殆ど誰もいないので自由だ。

 デッキのある普通列車、なんてのも少なくなった。車内、中の方までお入りください、なんて案内される、運行する側からすると厄介な空間だろうが、この独特の雰囲気も日本国内では過去になりつつあるのか。


 製造銘板2題。富士重工業は正式社名がSUBARUになり、それより以前に鉄道車両製造からは撤退。新潟鉄工所は会社自体が無くなって車両製造部門はIHIの子会社、新潟トランシスになっている。
 運転席へ。


 ガラス越しの見る機会はいくらでもあり、中間に入った運転台の助手席側を見る機会もいくらでもあるが、運転席側はなかなか、無い。運転席に座らせてもらい、記念写真を1枚。これで1つ目のイベントは終了。次は中古部品販売なのだが順番が指定されていて、13時まで時間がある。その間に食事を済ませようかと思う。
 秋田駅で駅弁を買っており、それを食べれば事が足りるのだが、どうせなら男鹿にお金を落とす方が良い。鉄道のツアーが来て、地元も潤って、またイベントやった方が良いよね、と地元から声が掛かるなら、良い事だと思う。この辺は先日の備後落合で思ったことと一緒だ。幸い、ここ男鹿には、備後落合と違って市街地がある。

 男鹿駅というか船川港と船川駅というべきだろうか、その栄華が薫る男鹿駅前。そんな中、古びたビルをリノベーションしたカフェがあったので入ってみる。地元の人っぽいけどそこそこ混んでいる。
web.akita-townjoho.jp
 メニューの中から船川で愛されたソースかつ丼というのを頼んでみる。ソースかつ丼なんて単語が似合いそうにない店だが、まぁ良い。 

 おしゃれな器で出て来た。JALのラウンジカレーみたいだ。味噌汁と漬物がついて¥1,100は強気価格だが、まぁ良い。男鹿にお金を落とすのが目的だから。デミグラスソースのような甘めの味わいを楽しむ。食後はコーヒーで〆ると13時がそろそろ近付いてくる。
 しかしこの時間、風が強くなってきた。店の外に出ていた看板が倒れたり、相当な風。駅に戻るべく店を出ると、本当に、風が強い。先程、駅前に展示されていたヘッドマークと行先表示板は倒れそうになったので撤収。駅の外でやっている部品販売も中止するかもという調子。駅舎の中に人が溜まって、結構な密になってきて、結局、キハ40系の車内を使っていい、ということになる。
 そして、この風の中、雨も降りだす。文字通りの暴風雨。男鹿線が船越水道の所で徐行運転。羽越線は運転見合わせなんて情報をまた聞きする。
twitter.com
 4月18日12時14分 配信 羽越本線:『運転見合わせ』
 羽越本線は、停電の影響で、羽後本荘秋田駅間の上下線で運転を見合わせています。運転再開見込は立っていません。仁賀保羽後本荘駅間は運転を再開し、同区間に遅れがでていま… #羽越本線 #Uetsu_Line http://jreast.co.jp/t_i/tohoku.html

 13時になる。物品販売の順番なのだが、文字通りの暴風雨。一応、一巡までは対応して、余った際の2巡目は行わない、という方針になった様子。だいぶ売れた後で、行先表示のサボなんかは潤沢に用意したようだけど、車籍銘板、製造銘板なんかはもう無かった。雨の中で選ぶ時間も限られ、適当に買い求める。しかし、この雨風の中ではお互い大変。
 席に戻って大人しくする間に、雨はやんでいた。風はまだまだ吹いているが、何とか動ける感じにはなる。活動再開。車内開放は継続なので、荷物は少し置いて行ける。それが風の中ではありがたい。

 写真を撮りつつ、駅の外。このタイミングで道の駅まで行っておく。
michinoekioga.co.jp
 少々買い物。生ものは持って帰れないし、調味料の類は昨日買ったから、それ以外で物色する。すると秋田らしくないこんなものを見つけた。
www.sbfoods.co.jp
 ディルというハーブ。自分も一昨年にウラジオストクに行った際に覚えた味。そんなものが男鹿で売っていると思わなかった。でもウラジオストクと男鹿は日本海を挟んでお隣同士かぁ。
 買い物をして、もう少し写真を別の角度で撮るべく、駅構内ではなくて、外、跨線橋が見えたのでそちらに回り込んでみる。

 ちょっと目先の変わった角度から写真を撮ってから、駅構内へ。席に荷物を置いてもう一度外に出ると

 ライトに光が灯る。

 キハ40系に命が灯る。もうすぐ折り返しの団体列車。男鹿から秋田へと向かう時間になる。そろそろ席に戻る。幸い、雨はやんでいる。風も弱まった。沿線で撮影する人には福音だろう。
 出発の合図でドアが閉まるとエンジンを吹かし、ゆっくりと列車が動き出す。男鹿駅に残った係員が手を振って見送ってくれる。
 列車は羽立から脇本に向けてカーブをしつつのちょっとした山越え区間。途中、写真を撮る人がやはり目立つ。ガチ勢と地元の人が半分ずつぐらいだろうか。家族連れの子供が列車に向かって手を振ったり、最後のキハ40系を地元も案外と懐かしみ、惜しんでくれる。
 脇本の分岐器を体をくねらせて速度を落として通過すると再びゆっくりと速度を上げる。

 列車は荒れた船越水道を渡る。カメラの放列、までは行かなったけど撮影の人に迎えられて列車は進む。二田で停車。停まるとドアを開ける。いわゆる換気だ。
 二田を出るとゆっくり加速して徐々に速度を上げてゆく。

 数分掛けての胸が好く走り。無人駅二つを快く飛ばすと松林の中を右にカーブ。奥羽本線が寄って来る。速度を落として追分停車。またドアが開く。
 本線のダイヤを縫う必要があるのか、追分ではしっかり換気。土崎でもしっかり換気となる。駅で列車を待っていた撮影の人には福音。土崎の駅、駅の外から割と撮れた筈だ。
 最後の一駅、とつい言ってしまいたくなったが、土崎を出ると秋田停車で今日は最後となる。

 土崎工場の留置線、今年3月まで苦楽を共にした同僚たちに見送られて4両のキハ40系は速度を上げる。今朝歩いた泉外旭川の駅でも地元の人が写真を撮る。1977年から続いてきた日常。旭川の橋梁を渡るとその終わりを惜しむかのように速度を緩めた。
 秋田駅の手前で一旦停止。下り線を行く特急をやり過ごしてから重々しく動き出す。下り本線を渡りながらの到着案内。1番線の到着、お出口は右側です。
 列車は多くに人に迎えられ、秋田駅1番線に到着する。粋な演出だ。秋田駅の2番線北側に設けられた切り欠きホーム、1番線。男鹿線の指定席だ。毎時40分になるとこのホームから、重たい車体に非力なエンジンで男鹿までの道へと乗り出してた。

 その日常は終わった、終わったのだけど 

 まだまだ続く、と言いたげなホームの案内。この後は18:58に男鹿へと向かう、という体で。
 キハ40系の旅は終わったが今は日曜日の夕方4時。明日は普通に仕事だから膳所まで帰らなくてはいけない。夕方の飛行機に乗ればそこそこの時間には着くけど、問題はこのツアーが仙台発着という事。この先は、まだまだまだ続くのである。
 一度ホテルに戻り預けた荷物を受け取る。昨日買ったオランダせんべい、バター餅、万能つゆ味どうらくの里、ヤマキウ秋田味噌という面々がずっしり重い。駅へと戻ると持ち時間早々。この先、仙台を通り越して東京までのこまちは乗車時間4時間弱。車内販売がコロナ禍で中止となっていて、文字通りの禍である。4時間に備えて色々と買い足す。

 改札口には羽越線の運転見合わせという案内が出ている。新潟行きの特急いなほは全区間運休。酒田行きの普通列車は新屋までの運転と告げられる。

 駅弁はこの時間、売り切れであった。午前中に買っておいたから困りはしないが、総じていうと困った事態だろう。車内販売は無いし、秋田までどこかで長い時間停まる駅もないし。
 自席に荷物を置いてもう少し。

 これから乗車する3040M、Z11編成を見ておいたが、もう1本、きになる列車が停まっている。


 先程来、乗って来たキハ40系と同じ顔つき。もちろん出自は同じでキハ40系の改造車、越乃shu*kuraである。
www.jreast.co.jp
 名前の通り新潟近隣が守備範囲なんだけど、この週末、青森に遠征した帰り、羽越線の運転見合わせに巻き込まれて秋田で足止めを喰らっている様子。
 席に戻るとまもなく列車は出発する。雨混じりの奥羽線を上ってゆく。
 時刻は17時前。少々早いが、手元の荷物を減らしたく、朝から持ち歩いていた駅弁を夕食代わりに食べてしまう。

【今日の駅弁】特製牛めし ¥1,080 株式会社関根屋



 そんな訳で今日一日限りの包み紙を纏った伝統駅弁を頂く。一般的には秋田に牛のイメージは無いと思うけど、なぜかなぜだか、昔から牛めしはあった。
sekineya.jp
 関根屋のサイトでも「変わらぬ味で地元でのリピーターが多く」の文字。濃いめの味付けは秋田の日常だ。
 列車は大曲で進行方向を変えて、雨煙る田沢湖線を行く。

 予報は単に「暴風雨」だったけど、その割には総じてうまく行ってくれた。有難い。列車の中から見る分には雨に煙る景色も悪くなく、定時に走ってくれる分には雨に煙る景色も悪くない。
 峠越え、流石に足が鈍るこまち。秋田発で乗っている分には、こんなものという感じが強く、速度の遅さも気にならない。仙岩峠をショートカットする新線を作る構想もあるみたいだけど、今から具体化したとしても15年、20年先か。
 峠を越えて里へと下ると列車は盛岡着。秋田から1時間40分が経っている。
 既に外は暗くなっている。ドアが開く前にはやぶさとの連結作業。この先は40Bとなる。連結の感覚も分からないままドアが開き、間もなく出発。列車は人が変わったみたいな速度をもって東北を南へひた走る。盛岡からわずか39分で仙台到着。
 この先は、団体券と別に特急券と乗車券を用意している。昨日、仙台で団体の特急券を貰った際に、仙台からの特急券を同じ席に合わせて貰っている。そのまま南下。既に秋田で買ったビールは底を突き、日本酒も飲み切った。もう1本欲しい所だが、ダメになるか何とか持つかの境目。補充が無いぐらいでちょうどいいのかも知れないと思う間に大宮到着の案内が入る。仙台から1時間10分。東北新幹線区間は本当に速い。
 列車が遅れると色々面倒な事になるが、今日は定刻で走り切ってくれた。東京到着20:32。秋田から3時間56分が経っている。このまま東京近郊の自宅に帰るなら、ちょっと明日が辛いなぁぐらいで済むのだが、この先がまだまだ、ある。 

 ここまで乗って来た40B、Z11編成にU25編成のペアと別れて、一度在来線の構内に。今度は

 東海道新幹線に乗り換える。のぞみはまだ姫路まで今日中の到着が出来る時間。東京の乗り換え時間、少しだけ余裕を入れて20:54の115Aを抑えている。ホームに上がると

 115A、今日はX33編成。
 追加で少し酒を買い、グリーン車に転がる。使い道の無かったエクスプレス予約のグリーンプログラム、ポイントを充当して京都まで。2時間12分掛かり到着は23:06となる。寝入って姫路まで乗り越さないようにしないと。
 しかし、秋田から京都まで16:36なんて時間に出て鉄道で日着出来るようになっていたとは。そりゃ、秋田新幹線が開業した頃にはのぞみも沢山走るようになっていたし、出来たのでしょうが。そんな乗り継ぎを考えた事が無かったので、初めて認識した。
 昔話をしだすとキリが無いけど、東北新幹線が本格開業する1982年11月以前ならば、秋田に16時にて京都に向かおうとすると急行きたぐにだった筈。京都到着は翌朝だ。7時ぐらいだろうか。夜行列車で1晩過ごして、翌日眠い目をこすっての出社だったに違いない。東北新幹線が出来た後でも、16時過ぎに秋田を発つと東京には21時過ぎだと思う。東海道新幹線は辛うじて名古屋までだろうか。急行銀河になるか、大垣夜行になるか。
 とにかく2021年はきたぐに大垣夜行もなく、新幹線でひたすら飛ばす事になる。東京でうっかり雪の茅舎
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 なんて酒を買ったから秋田を引きずりつつ過ごすと名古屋着。空いていた車内がさらに空く。うっかり寝入って寝過ごしが視野に入ったが、何故か何故か目を覚ますと野洲川を渡って守山へと進むところだった。明日は朝からしっかり働け、という事か。
 京都に定時到着。秋田から6時間半。飛行機よりは遅いがそれでも速い。終電が近づいた東海道線膳所まで戻ると京阪電車は終電の出た後。荷物は重いが歩いて帰宅。まもなく24時になる。
 今日の荷解き、明日の身支度。最低限の事だけ済ませると潰える。明日は早い。

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