2024-05-04

 旅先、ホテルの一室で目が覚めた。台湾東部、花蓮県玉里鎮滞在中。外はまだ暗いが、もう寝付けない。窓外の様子を見る。

 ホテルの向かい、既に灯りが点いている店がある。時折、買い物客もくる。朝食店かな?と思いつつ夜明けを待つ。
 今日は7時ぐらいから動くことにしている。妻が起きて6時になり、外も明るくなる。

 昨晩は小雨混じりだった玉里。今朝は明るい曇り空、と言ったところだろうか。雲の切れ間から山々の気配も感じ取れる。天候は回復傾向の様子。
 そして早朝から営業するホテル向かいの店。夜が明けてみると豚肉屋だったことが分かる。豚肉専門店。実は隣の駐車場はスーパーマーケット。豚だけでなく鶏も魚も野菜も手に入る店。そんな便利な店があっても、豚肉店なんてニッチな店がやって行けるんだ。しかも早朝から。
 7時になり、母を迎えて外に出る。今日のホテルも朝食は付いているのだが、台湾の朝はやっぱり朝食店で迎えたい。先程、朝食店と見間違えた店先に豚足やら豚の塊りがぶら下がっている様子を見てから、円環を挟んで反対側へ赴く。

 今朝の玉里。あちこちで商店が営業を始めていて、賑々しい。昨日は夕方、中学生の通学姿が消えると火が消えたように大人しくなった玉里の街がまるで別人だ。母も玉里は朝の街なのね、と感心している。
 妻が選んだ朝食店に着く。GoogleMapで見つけた人気店だが、この時間、店は空いている。後ろの行列を気にせず注文できるのはありがたい。

 店の人は旅行者にも慣れているようで、優しく対応して貰える。注文は焼餅にアルファルファを挟んだものに、妻のリクエストで卵を追加。そして鹹豆漿。

 3人で200NTDしない程度の食事だが、これが実に美味しい。高雄の店も旨いが玉里も負けず劣らず。ついつい笑顔になる。
 朝食を頂いていると何人かお客さん。どうやら台湾一周、環島というのが流行っているみたいで、自転車で一周中、歩いて一周中なんて落書きというか寄せ書きというか、サインが壁に幾つも書かれている。その環島の拠点に玉里がなっている様子。
 朝食を終えて一旦ホテルに戻る。のだけど、この時間の玉里の賑々しさを味わいたく、ちょっと遠回りする。

 玉里の商店街、とは言わないだろうが、市場と言えばいいのか。豚肉屋、鶏肉屋。八百屋に果物屋。玉里麺の店や早餐店。魚屋の軒先に動くものがいるので何かと思ったら蛙だった。これにはさすがに3人とも驚く。
 衣料品店の軒先にナイロンかごバッグが売っていて妻が関心を示す。結局一つお買い上げ。どちらかというと観光客向けのアイテムで、玉里に観光客が訪れる証拠、かも知れない。
 市場から駅の前を通り、ホテルに戻る。その途中にある、

 郵便局がある。当然ながら建物は変わっているが、場所は日本統治時代と変わらないそうだ。祖母に連れられて訪れた記憶の中の郵便局、その前には大きなパパイヤの木があって、「あれなに」と祖母に聞いていたら、その実がその日の食卓に上ったなんて昔話を聞かせてくれる。母の口から出て来る玉里は豊かな所であったようだ。戦時中も敗戦後も、米は物々交換でしか手に入らないが、野菜は官舎の裏で作れたし、果物はその辺で実っている、食うに困らない土地だったそうだ。 

 8時近くになり、青空も広がった玉里の街。ホテルに戻る。今日のホテル、朝食が付いている。先程、早餐店で朝食は済ませたが、コーヒーぐらいは飲んでおこうかと朝食の会場へ赴く。先客1組。昨夕の印象同様、宿泊客は少ないようだ。

 コーヒーだけのつもりが、野菜が足りないなあと思い、あわせて頂く。気が付いたら粥も一杯頂いている。
 今日は午前中一杯、玉里に滞在する。残り2時間ちょっと。もう一回、街歩きをしたい。玉里の街外れに日本統治時代に神社だった所が残っているので、足を伸ばしてみる。

 昨日の玉里が嘘みたいに晴れ上がり、気温も上がっている。日焼け止めをしっかり塗って、もう一度、外へ。
 玉里神社跡は先程訪れた市場の先、台東線の線路の東側、山裾にある。昨日来何度も歩いてすっかり町の構造が頭に入った玉里の中心街を歩く。同じところを歩いても面白みに欠けるので、ちょっと別の道を歩いてみる。日が高くなり、暑くなるからか、人の動き、心なしか鈍くなったように見える。暗いうちから営業していた豚肉店もあらかた商品を売りつくしたようだ。

 街を猫が闊歩する。妙に人懐っこい。

 町役場に出る。当然建物は変わっているが、日本統治時代と場所は変わらない。玉里の町割り、基本的に日本統治下そのままである。警察署も近いので、ちょっと寄り道してみた。昨日は薄暗くなったので入り込むのを見合わせた路地に入ってみる。

 日本家屋かどうかは見た目良く分からないが、長屋が並ぶ中、巨木が根を生やしている。母が生まれた頃からここにあったに違いないが、母は覚えていないとの事。やはり、母の生家は警察署から見て左側の今いるエリアでは無く、右側にある中学校のあたりなのだろう。

 警察署を見て、ここから玉里神社跡に向かってみる。中学校の脇を抜けて台東線のガードを潜る。玉里の市街地は駅裏までは広がっていない。間もなく

 濃い緑広がる田園地帯となる。日差しを遮るものも無くなった。蕃人の住む山へと続く道、程なく人家が何軒か固まっているエリアになる。

 玉里神社遺址と真新しい看板が出ている。その向こうにはコンクリートでできたと思しき鳥居。日本統治下のものではないだろうが、雰囲気を残そうとしう努力は見える。
 小高い丘の上にある神社跡へと続く参道を登る。

 参道を振り返ると人家に挟まれた、生活の場、という雰囲気。今では人の家の敷地内だが、忠魂碑が残っているそうで、その頭だけが見えている。玉里地区で殉職した警察官を顕彰し建てられたもの。蕃地を治める警察官には、同化政策に抵抗する蕃人に殺される人も少なくなかったようだ。祖父が玉里に赴任した昭和11年は台湾統治が始まって40年以上が経っており、警察官が殺害される、と言う事はレアケースだったと想像はする。しかし、まかり間違ったら自分は産まれていない訳で、他人事ではない碑である。
 参道を登る。

 鳥居を抜けて登り切ったところが境内の跡。
 灯篭が残されている。

 文字は消された跡があるが、その割には綺麗だ。修復されたものかも知れない。

 拝殿があったであろう辺りは石垣、階段が残っているのみだが、往時の様子は偲ばれる。母が祖父母に連れられてお宮参りをしたのだろうと想像はされるが、母には神社を訪問した記憶はないとの事。現地に立って思い出す、なんて事も無かった。

 ただ、玉里の街を一望できる眺めが素晴らしい。暫く眺めてみる。
 そろそろホテルに戻る。来た道を戻り、台東線のガードを潜ると玉里の中心市街地。市場はまだ賑やかさを残している。台北から玉里に来ると午後玉里、という行程にはなりがち。しかし今回は玉里に泊ったからこそ、朝の賑やかな玉里、という別の顔を見る事が出来た。生まれ故郷が活気を帯びている光景が、母の眼には好ましく映ったそうだ。単なる田舎町訪問に巻き込んだ形になった妻の事も心配だったが、のんびりできて良かった、との事。今回の玉里訪問、まずは合格点を貰えたようだ。
 最後のミッションを一つ。母の言いつけには背くが、玉里羊羹を買い求める。市場を抜けて少々、一番の有名店を訪れる。

 店には玉里羊羹の歴史を記したパネルが展示されている。創業1946年とあり、日本人に製法を習ったようなことが書かれている。46年は日本人が引き揚げたした年。最後の最後に教えて貰った、という感じだろうか。母はやはりいらない、というので自分たちで食べる用と妻の実家用に買い求める。
 ホテルに戻って身支度と荷造り。今日は12時前に玉里を出る列車で台北に向かう。ちょっと前にホテルをチェックアウト。昨日来、何度も通ったラウンドサークルを経て玉里車站に向かう。駅に着いたところにちょうどタクシーが来て、日本人と思しき夫婦が降りて来る、スーツケースを降ろして貰っていたから旅行者だろう。およそ日本人に縁遠そうな土地だが、さすがに連休期間。こんな所にも日本人観光客が来ているんだ。タクシーを使うと言う事は玉里郊外の温泉地、安通温泉の宿泊客だろうか。安通温泉は日本統治下で警察官向けの保養施設として開湯されたところ。今回の玉里ゆきでの訪問地として考えてみたが、日程上諦めている。

 玉里麺を持つ玉里熊に迎えられて玉里車站の構内へ。今日の切符は昨日の自強同様、ネットで予約していて、昨日、高雄で受け取っている。

 改札口の出発案内。後発の417次太魯閣、台北方面、樹林ゆきが今日の乗車列車。11:57に玉里を出発。台北には15:12に到着する。3時間ちょっとの旅となる。出発まで40分弱。少々、駅構内を見て回る。


 古い玉里を描いた絵が飾られている。1957年と書かれているから日本統治下ではないが、母の知っている玉里に近い絵なのだろう、としばし眺める。
 お昼時に掛かる列車なので駅弁でも確保しておきたい。駅構内に弁当は売っていないが、どうやら駅近くの弁当店で買ってくるものらしく、ちょっと行ってみる。一番近くにあった池上弁当の店は営業していなかったが、もう1店、池上弁当の店があり、そちらで購入。弁当は注文を受けてから詰めるものらしく、昼時を控えた時間と言う事もあり、ちょっと時間が気になったが、無事に3個手に入れる。
 車站に戻ると改札が始まっている。駅構内へ。

 昨日も見かけたディーゼル機関車が停まっている。玉里駐在運用と見える。貨車は姿を消していて、列車は見ていないが、貨物列車も走っているようだ。

 こちらは中線に停車中の区間車用電車。無骨なEMU500は台北でも高雄でもあまり見かけなくなった。
 間もなく南側から列車接近。

 417次 太魯閣 台北方面樹林ゆきがやって来る。高雄から来る時の自強と違い、モノクラスの8両編成。予約した普通席に座ると間もなく出発である。
 列車は速度を上げる。玉里の街はすぐに過ぎ去り、花東縦谷の平原と石ころだらけの河原が車窓を流れてゆく。

 左手には台湾の脊梁山脈、蕃人の住む山を見て北へ。417次、太魯閣はまずは花蓮に向けて走る。途中、1駅だけ停車でわずか50分の距離。母が祖母に連れられて、玉里から引き揚げた時は汽車に乗ったそうだが、その時は3~4時間掛かった筈である。引揚げの時、玉里の駅頭で祖母は地元の人に声を掛けられたそうだ。物凄い勢いのやり取りの後、バナナを貰って汽車の中で食べた記憶が母の中に残っているとの事。後日、母は祖母にその時の事を聞いたそうだ。何て声を掛けられたのか?と。祖母の口からは「あなた、そんな小さな子供を連れて、何処まで行くの?」と聞かれたから「秋田だ」と答えたら「そんな遠くまで大変だねぇ。これをもって行きなさい」とバナナを1房、貰ったとの事。そんな訳で1946年にバナナを食べて辿った鉄路。78年経った今日はバナナでは無く駅弁を頂く旅路になる。

【今日の駅弁】経典池上飯包 85NTD 悟饕池上飯包

 そんな訳で玉里車站近くの弁当屋さんで買い求めた駅弁というのか、弁当というのか、そちらに手を付ける。
 注文を受けてから詰められたお弁当はまだ温かい。日本は冷めても美味しい弁当を追求しているが、台湾では食事は温かいものなのだそうだ。


 中身は叉焼や煮卵といった面々に温野菜。一番下にはご飯が控える。今回の旅行では、ご飯を頂く機会が2回、昨日の高雄積み込み台鉄弁当と、今日の池上弁当。どちらも駅弁になるのだけど、今日のご飯は池上の名を汚さぬ味わい。
 お弁当を頂いて少々。大きな街が現れて花蓮到着となる。つい先日、地震に見舞われた花蓮の街だが、列車から見る限り、被害は目に付かない。一週間ほど前も余震が何度か発生していて、今回の玉里ゆきも少しの心配があったのだが、ここまで何事も無く済んでいる。
 母が玉里から日本に引き揚げる時は台東線は花蓮港が終点であった。母は花蓮から鹿児島まで船で引き揚げたらしい。そんな花蓮の街だが、母はすっかり眠っている。花蓮で降りる人が少々いたが、代わりに乗って来る人もいて、太魯閣の車内は満席を維持。隣のホームにはPPタイプの自強が停まっていたが、そちらの客は疎らだった。間もなく出発。ここまで太魯閣は定刻である。
 列車は花蓮を離れて北へ。北廻線へ歩みを進める。母が座る右手には太平洋、自分と妻が座る左手には山脈が迫る。厳しい地形の中、僅かな平らな所を列車は縫うように入る。振り子式の太魯閣が本領を発揮する区間である。 

 高い山から一気に太平洋へと注ぐ川の石ころだらけの河原を渡り、列車は北へ。速度が緩むと

 地震の影響だろうか、復旧工事を行っているらしい現場を通り過ぎる。腫れ物に触るように通過すると再び加速する。
 玉里は青空だったが、花蓮を過ぎたあたりからか、雲が目立つようになった。列車は宣蘭へ。葱の産地として孤独のグルメに出て来て、最近では台湾ウイスキーのふるさととしても名高い街である。花蓮から基隆の間では唯一の大きな街だが、花蓮で満席になった列車に乗って来る人は少ない。間もなく発車する。

 窓外に太平洋を見て列車は走る。次の停車駅は「南港」と表示される。もう台北近郊かと思うとずいぶんと速い。
 宣蘭と台北の間は、台湾島の脊梁山脈を越えれば近いようだが、北廻線は海岸線沿いに忠実に走り、だいぶ遠回りをする。海岸線と言っても山脈が落ち込むような荒々しい海岸線だから、何とも険しい景色が続く。このまま行くと台湾島の北東の端を廻り込む事になるが、さすがにそこまでは付き合いきれないのか、山地に逃げ込む。ちょっとした峠越えを果たすと平渓線と合流する辺り。まだまだ山中だが、人の気配が濃くなる山地。
 基隆からの縦貫線と八堵で合流すると一気に台北近郊に出た感じになる。 

 左手には狭い谷筋に建物が密集し、右手には台鉄の車両基地が広がる辺りを進む。区間車を追い抜いたりして走りは緩めないが、間もなく南港到着。この先、松山、台北、板橋と停車駅が続く。今日は台北泊だが、ホテルは松山の方が近い。ちょっと考え、松山下車と決める。いささかタイミングが遅く、慌てて降り支度。母に声を掛け、スーツケースを降ろし、さて下車としようとしたら、母の隣の人に声を掛けられる。帽子を忘れていると。あらっ、ありがとう。台湾の人は昔も今も優しいなぁ。

 玉里から3時間。台北市内松山車站に到着した。今日は松山機場近くのホテルを予約している。予約したホテルへ向かうべく、改札を出る。どうせなら切符を貰おうと改札の方に声を掛ける。自分はスマホの翻訳を見せて意思を伝えたが、その後から母が日本語で声を掛けている「記念に下さい」って。意志は伝わったようで無効印を押してくれたが、妻が日本語話せるんですね、って中国語で話しかけたら、分からないって。雰囲気で全部処理してくれた、らしい。
 台湾第二の都市から始まり、母の生まれ故郷となる田舎町を経て、台湾最大の都市へとやって来た。3時間前に居た国と同じとは思えない台北の街と人。地下鉄に乗り、一駅、南京三民が最寄りの佳德鳳梨酥に寄ると入場待ちの大行列で世界が違う。日本人もちらほら。荷物を増やしてまた地下鉄。南京復興で乗換。

 松山機場へも向かう 線に乗る。花蓮からずっと曇り空だったが、ここにきて雨がぽつぽつ降って来た。ホテル最寄りの中山國中まで来ると可愛くない降り方になっている。4日前に膳所を出て以来、世話になる必要が無かった折り畳み傘にお出まし頂き、ホテルへ。
 台北のホテル。松山機場に近い所で、GoogleMapで評価が高い所で、リーズナブルな所、という感じで選んでいる。でもチェックインした所、評価が高い割に雰囲気やら何やらがイマイチ。匂いに敏感な妻はカビ臭いと嘆いている。もう少しお金を出せば良かったかなという感じ。でも評価は高い。そのからくりはホテルのロビーで良く分かる。Google mapで5の評価を付けた人は、お菓子やカップ麺が食べ放題になるそうだ。
 ひとまず移動の疲れが出るので母には部屋で休んでもらい、自分たちは近くにあるスーパーを覗いてみる。幸い雨は上がっていて、傘を差さなくても歩けるようにはなった。自宅用に少々買い物。18時ぐらいに改めて母と3人、夕食に出掛ける。ホテルから割と近い所にある小籠包が有名なお店へ。
 人気店だけに入れるまで40分程の待ち時間。その間に日が暮れる。19時を過ぎて店内に案内される。
 注文は小籠包や焼売。脂っこい物ばかりでは母の口に合わないかも知れないので、脂と縁遠そうなものも頼む。まずは

 まずは台湾ビールを頂く。高級店でもお酒に関しては缶で出てくる事も多い。あまり酒を大々的に飲む国ではないし。

 炒飯が先に来て、

 メインの小籠包がやって来る。母の口に合うか心配したが、美味しいと言って食べて貰える。小籠包の店、実家の最寄駅近くにもある事を先日、朝の散歩で分かったのだが、今度連れて行っても良いかも知れない。

 蛤とヘチマの蒸し物というメニューを母のために用意していたのだが、杞憂だったようだ。とは言え、こちらも優しい味で美味しい。

 そして海老焼売と

 空心菜炒め
 これで1,600NTDなので8,000円弱。3人の夕食代と思えばそんなものだが、日本で食べるのと変わらないか。玉里を見た後の台北は殆ど東京と変わらない雰囲気。母が以前みた台北を扱っているのに興味を持って見に行った台湾映画が、仕事に追われてお金があっても精神的に満たされない台北の生活を扱ったものだったらしいのだけど、その映画で見た景色がそのままの都会っぷりと感嘆するように言っている。
 一旦ホテルも戻る。母を歩かせるのはここまでにして、自分たちはもう少し歩いてみる。先程、地下鉄の乗換で使った南京復興駅近くに夜市があるらしいので、そちらへ。
 南京復興まで歩く道、見覚えがある。どうやら10年前に泊ったホテルの近くらしい。夕方のフライトで羽田から松山について、そのまま泊ったホテルだと思う。


 遼寧街夜市に着く。行ってみると屋台が並んでいてという感じでは無く、中華寺院の門前町に並ぶ、飲食店街と言う所だろうが。胡椒餅があればなあと思ったが、そんな感じでは無かった。代わりに、ではないがカルフールに足を伸ばす。ホテルに戻る方向だが、少々疲れがあり、帰りはバスに乗ってしまう。

 異国のバスは難関だったが、GoogleMapと交通系ICカードのおかげでハードルがうんと下がった。経路検索は楽、運賃の確認も楽。一つ難点が残るとすると、乗車時と降車時、どっちでタッチするんだっけ?という所。台北の場合はゾーン運賃制らしく、ゾーン跨りの時は乗車前後の2回タッチらしいのだが、ゾーンがどこで分かれるのかが良く分からない。今回はホテルの近くまでの短距離なので乗車時タッチの1回だけ。
 カルフールで寝酒代わりのビールを買って、ホテルに戻る。明日に備えて荷造り少々。今日も早い目に寝ておく。

サイトアップ アクセスカウンタ

 サイトアップはお休み
 アクセスカウンタは機能せず
 万歩計は20,608