2024-05-03

 まだ暗いうちに目が覚める。まだ寝ていられるので目をつぶると寝落ちたようだ。気が付いたら5時半になっている。外が明るくなった。
 昨日は何もせずに寝落ちたので、シャワーを浴びたり、歯を磨いたり、何だかんだと身支度。

 窓を開ける。今日の部屋は2階。何時になく低いがチェックイン時にはアップグレードと言われた部屋だ。確かに普段より広かったような気はするけど。
 窓外から見える通りにはクルマやスクーターの姿がまだ見えない。高雄の朝、まだ明けたばかり。
 今日は7時に母と合流。朝食を食べに行く。ホテルに朝食は付いているのだけど、台湾は朝食店が美味しい。母の口に合うか不安はあるが、やはり外に食べに行きたい。
 7時を過ぎてほてるからちょっと歩いた所にある人気の朝食店まで赴く。この時間、通勤が始まっていて、1時間前と打って変わってクルマ、それ以上にスクーターが数多く行き交う。
 市議会の駅からちょっと入ったところにある朝食激戦区。興隆居と果貿来来豆漿。妻と二人であれば両方を梯子するところだが、今日は高齢の母が一緒。さすがに1店に絞り込む。結局、よりあっさり目な果貿来来豆漿の方が良かろうとそちらに足を運ぶ。
 


 湯包を一人一つずつ。鹹豆漿や豆乳を。ちょっと心配した口に合うか問題も大丈夫。むしろ日本の物より美味しいと好評を得る。そして母が食べたいと指名した大葱餅。葱パンと言えば良いのだろうか。これも美味しいそうだ。全部は食べきれず持ち帰りになったけど、台湾のパン、というか小麦製品全般、日本のものより美味しいとの事。
 食事の後は少し歩く。愛河ぐらいまで行くのが手頃かと思い、少々。
 その愛河の河岸。遠目にも目立つ樹があって、近寄ってみる。

 真っ赤な大振りな花が鮮やかに咲いている。後で調べてみるとホウオウボクというらしい。
 先にこの花を撮っていた台湾人と思しき男性に声を掛けられる。片言の英語と日本語でやり取り。こっちの方が綺麗に撮れるよ、なんて教えて貰ったり。

 愛河の河岸を少し歩いてからホテルに戻る。朝食と合わせて小一時間の散歩道。朝食は食べてきたが今日のホテルは朝食付き。コーヒーと果物だけ頂く。
 落ち着いた所でもう少し出掛ける。自分としては今日のメインイベント。ホテルから美麗島の駅まで歩く。

 いつ見ても見事なステンドグラスを見て今日は橙線に乗る。台湾で使える交通系ICカード台北の悠遊卡と高雄の一卡通を両方持っているので、母に貸与。小銭を扱わなくて良いのは台湾ドルに慣れない外国人にこそ、利点が多いと思う。
 橙線で1駅、信義国小駅で降りる。向かった先は、観光客には縁遠そうな場所。

 高雄市新興区行政中心。日本語で言うと区役所だろうか。この2階にある

 高雄市新興区戸政事務所が今日の訪問先。先日来、取得を目論んで来た、祖父母というか、母というか、その戸籍に関する資料を取得するためにやってきた。日本統治下の台湾での戸籍謄本は今も台湾で管理されていて、本人や直系血族であれば申請すれば取得できる。
 母の産まれは高雄では無く、台湾東部、今でいう花蓮県玉里鎮という所。しあkし台湾の戸籍情報はオンライン化されていて、全国どこの戸政事務所でも申請が出来るそうだ。そんな訳で順路にあり、かつ、戸政事務所のWebサイトに問い合わせ用のメールアドレスが記載されていた、高雄市新興区の戸政事務所に連絡を取っていた次第。メールのやり取りで本人、つまり母親が申請するのであれば
・本人的護照 (本人のパスポート)
・日本戶籍謄本,需經我國駐外館處驗證 (日本の戸籍謄本 台湾の在外公館による文書認証をうけたもの)
 があれば良いと確認している。ちなみに直系血族である自分で申請する場合は、
・您的護照影本(經我國駐外單位驗證並加註與正本相符)
 と返事が来ていて、パスポートのコピーを在外公館で文書認証受けないといけないらしい。

 戸政事務所は空いていた。受付に歳の行った案内係がいて、用事を聞かれる。「申請日據時期戶口調查簿謄本」と書いたスマートフォンの画面を見せると分かったような分からないような反応で受付カードをくれる。
 順番が来て要件を伝える。何度かメールのやり取りをしていて、5月3日に伺うと言う事も伝えていたけど、最初は意図が通じない。台湾の身分証明書はあるか?と言う事を聞かれる。勿論台湾人ではないから、そんなものは有していない。妻の片言中国語と自分の片言英語で応戦。次に日本戶籍謄本の中国語訳があるかと聞かれる。これも困ったが、メールのやり取りの最初に必要な所を翻訳サイトを通して訳していたことを思い出す。

戶籍記載的人
名     
出生日期  
父親    
母親    
關係    
狀態資訊  出生
出生日期  
出生地   玉里鎮 花蓮港庁 花蓮縣 台灣(台湾花蓮花蓮港庁玉里郡)
通知日期   

 日本の戸籍謄本には出生地として台湾花蓮花蓮港庁玉里郡としか書かれていない。日本で言ったら「秋田県秋田市」で済まされているようなものである。
 一人で対応していた係員が3人がかりになり、メールのやり取りに思い至った人がいたのか、意図が通じたようで、パソコンの画面で何やら調べ物を始める。そして、3人が笑顔になる。こちらも手応えを感じる。そして何やらプリントアウトされて、A3用紙1枚を渡される。祖父が世帯主として記載されている。どうやら住民票のようだ。交付代金はメールに記されていた通り15NTD。湯包1個が17NTDだから、それよりも安価。
 住民票によると「寄留」とある。本籍を秋田に残したまま、台湾に赴任していたと分かる。祖父が一人、台湾に赴任したのが昭和11年。その後、住所は玉里の中で2度変わっていて、昭和14年に祖母が寄留とあり、この時が結婚した時と思われる。この辺は本籍の謄本を見れば分かるのだろう。その後は住所が変わっておらず、母の口から聴いたことがある玉里の生家はこの書類の中に記載されている住所で間違いないと思われる。
 一仕事を終えて胸をなでおろす。一時はどうなるかと思ったけど、何とかやり切れた。初めて生まれた地の住所をしっかり字面で見た母は感無量という感じ。
 戸政事務所をお暇すると10時半だった。随分と時間が掛かった気がしたが、まだ10時半だった。案外と時間が経っていない。戸政事務所の近くに気になる観光施設があり、見てみる。

 逍遙園とある施設。近付いてみると

 そこには日本家屋がある。1940年に建てられた、というので母と同い年である。見学したいところだが、開園は11時。まだ時間があり、11時までは待てなかった。
 ホテルに戻るべく、地下鉄に乗る。

 最寄駅の信義国小駅にこんな広告。大阪・京都・滋賀とあり、滋賀の景色は京津線浜大津のカーブ。この写真、高雄の人に訴えるものがあるんかしら。
 地下鉄。橙線に乗り一駅、美麗島に戻る。先程の戸政事務所のやり取りですっかり喉が渇いてしまった。


 老江紅茶牛奶でミルクティーを頂く。普段は飲まない甘ったるいミルクティーが何だか嬉しい。
 ホテルに戻ると荷物を括る。高雄のホテル、今日でチェックアウト。移動する。前回の台湾訪問で慌ただしい移動の繰り返しを反省した記憶があるが、今度は高齢の母親を連れて、似たようなことをやる。反省が足りないようだ。
 ホテルをチェックアウトして美麗島の駅から地下鉄、紅線で1駅。

 高雄車站まで来る。ここで母のリクエストが一つ。古い駅舎を見たいという。高雄車站の旧駅舎、記念館になっている。以前、見学をした際に案内係の台湾人に「ありがとう」と言われた覚えがある。
 台鐵の地下化工事は一段落ついているが、高雄車站の再開発はまだまだ続いている様子。

 母が見たいと言ってた高雄車站の旧駅舎も工事中のエリアに入っていた。囲いの外から外観だけを見る事になる。改めて現在の車站に戻ると移動。駅構内へ進む。

 前回の高雄滞在時は確か12:45の自強に乗って台中に向かった。今日乗るのは12:53の431次。南廻線 樹林ゆきとある自強。ホームに降りて大人しく列車を待つ。

 先発の区間車がやって来る。区間車も10年の間に代替わりが進んで、高雄あたりでも真新しい列車が来るようになった。
 次に来るのが今日の乗車列車。EMU3000型の新自強。やって来た電車を撮り損ねたのでこの時点では写真無し。車内へ進む。今回は、というか今回も折角なので上級クラス、騰雲座艙に乗る。切符はネットで予約したものを先程、高雄の窓口で引き換えている。間もなく出発。すぐに係員が廻って来る。騰雲座艙の軽食サービスである。山側の2人掛けに座る自分と妻には多分、中国語で対応してきて、何となくそれっぽく受け答えをしておく。海側の1人掛けに座る母は日本語で通していると、係の方が日本人の方ですか、と日本語で話を始める。
 いずれにせよ、予約時に指定ていたお弁当で台湾2食目のお昼ご飯とする。

【今日の駅弁 番外編】EMU3000 台鐵弁当  高雄供餐站



 騰雲座艙の限定で提供される台鐵弁当。真ん中に排骨が構える台鉄弁当らしい内容。そのほか、南瓜の煮物や練り物があったりするのは通常の品と違う。ワカメの炒め物というのも珍しい。ちなみに

 妻が予約していたのは同じ台鉄弁当の素食というもの。つまり菜食弁当。見た目には排骨に見える真ん中のものは何か分からないが似せた練り物。海老に見えるものも海老では無く、素食が徹底している。
 列車は高雄市内の地下線を出て高雄郊外、地上線を走る。窓外の景色は既に出穂した水田が見えたり

 何か良く分からない作物が植えられた畑地が車窓を流れてゆく。時々街が現れ速度が緩むと停車。概ね10分毎に停車する。西部幹線の列車が終着となる潮州に着く。コロナ前に乗った時はここから先、非電化区間だったが、南廻線も電化されて、電車が台湾を一周できるようになっている。新自強、EMU3000型も躊躇なく東への道を辿る。
 その潮州を過ぎると景色が鄙びて来る。田園が多い所なので水っぽい景色が流れるが、その中で目立つのが

 鰻の養殖池。7月の出荷に向けてまん丸に太らせている所なんだろう。

 こちらは何かの果樹。一つ一つ大事に紙袋を掛けられている。余程高価なものに違いないのだが、何か分からない。気にしてみていたら、紙袋が掛かっていないものにちらっと見えてマンゴーと知れる。5月以降に収穫期を迎えるのだそうだ。台湾南部では台南の郊外、玉井がマンゴー産地として有名だが、枋寮でも採れるのか、と思い巡らし、そういえばと思い出す。

 10年前の6月、枋寮の食堂でマンゴーをサービスして貰った。
 列車はその枋寮を出発。南廻線へと入り込んでゆく。右手には海が見えて来て、左手は険しい山。台湾島の脊梁山脈を越える鉄路を進む。この先、人煙稀なるエリアで、列車は1時間弱、停まらない。とは言え、実際には列車のすれ違いで時々、運転停車で道を譲る、
 海が離れてい行くと山越えの区間

 山間の景色が広がると少々眠くなる。せいぜい15分ぐらいだと思うが、うとうとする。その間に脊梁山脈をトンネルで越えて太平洋側に出たようだ。
 列車は石ころだらけの川を渡り、駅に到着する。ドアが開いて大武車站と知る。ちょっと停まるようだ。 

 出発時間が分からないからデッキからホームの様子を見る。しばらく停まった後、南行の列車がやって来る。新自強が通過していったが、後で時刻表と突き合わせると台東から新左営に向かう314次らしい。まもなくこちらも出発する。

 間もなく母が座る海側の座席、太平洋が広がるようになる。青空の下に青い海。既に夏のような景色。そういえば台湾南部は北回帰線よりも緯度が低い。

 反対側の山の景色が曇りがち。台湾の脊梁山地はいつも天気が悪いような印象を受ける。

 そして川はなぜか石ころだらけ。枯れ川ばかりが目立つ。そういえば母の口から何度か聞いた台湾での話に、「山から下りて来た蕃人」という言い回しがあった事を思い出す。戦争末期か終戦後か、台湾山岳部に住む原住民が食糧と衣類の物々交換をするために日本人の住む家に来るのだけど、裸足でやってきて、玄関先にある靴を履いて帰ってしまうので「蛮人が来たよ」という声が聞こえると玄関先の靴を隠して迎えるのだそうだ。その蛮人が来る山というのは今見えている山々何だろうなぁと思う。思ったのだが、今、新自強の車内で「蕃人」という言葉を発するのは憚られる。日本語が分からない人が多いに違いないだろうが、万が一はある。はて、と思い、母に声を掛ける。「山から下りて来た人が住んでいる山って、あんな感じの山?」と。「山から下りて来た人」我ながら良い言い換えだ。
 列車は知本に到着。高名な温泉がある街で、高雄から乗って来た人、割と降りてゆく。そんな様子を見ていると、隣のホームに列車がやって来る。

 あらっ、普快車。
 2014年の南廻線で乗った普快車。

 2020年のコロナ禍中、南廻線の電化により廃止になったのだが、その後、観光列車、藍皮解憂號として復活している。

 こちらの列車が発車する。

 隣の列車も転換クロスシートが並ぶ、かつての優等列車が如き雰囲気。過去と現代が一瞬、交錯する。
 人煙稀なる、というエリアを抜けて、431次新自強は台東へと向かう。平地が広がるようになり、再びマンゴー畑をみつつ、少々。街は無いが大きな駅が現れて台東到着となる。台東は街と駅が離れている。
 高雄からのお客さんがだいぶ降りて、代わりのお客さんが乗って来る。乗務員も交代のようだ。15:17の出発まで5分停まるのでホームに降りてみる。

 高雄の駅で写真を撮り損ねたのでようやく乗って来た列車を撮る事になる。隣にも同じEMU3000型、新自強。時刻表を見ると樹林発新左営ゆきの422次。今乗っている431次と対になる列車。駅の隅には台東始発の新左営ゆき、莒光708次も姿を見せている。

 構内には日本では見かけなくなった黒々とした貨車も姿を見せている。
 台東、定刻出発。ここからは台湾東部、花東縦谷と呼ばれる平原地帯になる。台湾でも有名な穀倉地帯、銘柄米の産地でもある。そんな訳で10分毎にちょっとした街が現れて列車は停まる。その中には駅弁で有名になった池上もあるのだが、母が関心を寄せたのが鹿野。ここは母の縁戚が赴任していたそうだ。製糖工場に勤めていたそうで、母も祖母に連れられて鹿野に来た事が有るとの事。玉里と鹿野、距離にして50㎞程、今乗っている431次新自強なら50分で走る距離。だが、1940年代、軽便鉄道だった台東線では何時間掛かったのだろう。泊りがけだったのかも知れないが、母の記憶はその辺は曖昧。

 431次新自強は母が80年前に2時間か3時間だか知らないが、ゆっくりと辿った道を軽快に駆けてゆく。時折、石ころだらけの川を渡り、駅に停まりの繰り返しを経て高雄から3時間。

 次の停車駅、玉里と案内が出る。母がドキドキしていたなんて言い出す。こんな母を初めて見たような気がする。

 曇り空の下、玉里の田園が広がり、その向こうには蕃人、いや、山から降りて来た人の住む山が見える。列車は玉里の市街地へと入って行き、駅構内へ。玉里、16:12到着、定刻。
 ホームに降りる。

 玉里のキャラクターらしい。玉里のエリア、熊が出るのかな。 

 駅構内の側線にはディーゼル機関車が姿を見せている。玉里自体は人口25,000人程度の小さな街。でも台東線の運転拠点であり、構内には昼寝をむさぼる区間車用の電車も姿を見せている。

 ここまで3時間以上、お世話になった433次、新自強が台北方面樹林車站に向かって玉里を出発する。その様子を見送ってから、改札口に向かう。今日は母の生まれ故郷、玉里に宿を取っている。
 母にとっては20年近く前、妹と訪れた事があるので、20年ぶり。自分は2014年に1度、駅周辺を歩いた事が有るので10年ぶり。妻にとっては台湾東部自体が初めて。そんな3人で台湾の田舎町に足を踏み入れる。

 玉里の駅前。田舎町らしく高い建物は何一つない。平べったい街が広がっている。

 振り返ると台鐵の玉里車站。2014年の駅舎とだいぶ違うが、これは多分、2014年に工事していたものが完成したもの、らしい。
 ホテルまでは駅から10分弱。歩いて向かう。途中、

 ラウンドサークルがあり、玉里の中心らしい。日本統治下にもラウンドサークルはあったそうだが、母の記憶によると、こんな感じでは無かった、との事。
 ここから少々。今日泊るホテルにチェックインする。まだ時間が早いからか、ホテルには客の気配を感じない。ホテルに荷物を置くと、17時ぐらいから玉里の街歩きをしてみる。目的は母の生家探し。午前中、高雄で当時の住民票のようなものを貰えたので当時の住所は書かれている。が、今の玉里とは住所表記がまるで違うから、こちらの情報はあてに出来ない。母の記憶頼りとなる。
 母の父親、つまり祖父は玉里で警察官をしていた。住んでいたのは官舎だったそうだ。当初住んでいた家から、戦局が悪化し、敗戦後、日本に引き揚げるまでに、別の家に引っ越したそうだ。どちらも家も警察署の近く。今も玉里には警察署があるが、どうやら場所は変わっていないようだ。その辺りを目指してみる。

 玉里の街。日本統治下の名残で羊羹が名物になっている。玉里羊羹。母は20年前に訪問した際に食べたものが、美味しくなかったそうで、「不味いから」と言われている。そうは言っても一度は試してみたいとは思う。
 自分にとっては10年ぶりの玉里はちょっと発展している。香港でお馴染みのドラッグストア、屈臣氏が出来ている。その先、警察署へ向かう途中にはKTV、つまりカラオケボックスがある。そんなものは無かった。20年ぶりの母もずいぶん発展したわね、と感心する。
 それでも日本家屋はそれなりに残っている。台湾の地方都市を丹念に歩いている訳じゃないから比較は出来ないけど、日本統治時代の建物が良く残っている、という観点では、台湾でも指折りの街かも知れない。

 日本家屋を生かしたカフェを見つつ、北の方へ。金曜日の夕方。街を中学生がたくさん歩いている。その先、突きあたりにあるのが警察署。そしてその周辺に母の生家があると思われる。
 その警察署の手前にカトリック教会がある。10年前にもあったんだろうけど、その時は気付かなかった。Google Map出現前後で旅の下調べは劇的に変わっている。
 前に書いた通り母親はクリスチャンなので、興味を持つだろう。しかも生家の近くという立地もある。そんな訳で母にこの右手がカトリック教会だと伝える。ぱっと見、教会とは思えない建物の前、地元の人が何人か屯っている。一見さんは絶対に近寄らない雰囲気。でも母は怖気つくことなく、じゃあとそちらに入り込んでゆく。日本語1つで聖堂はどこ?と現地の方に声をかけ、2階にあるらしい聖堂へと。カトリック教会はミサがあろうがなかろうが、聖堂には立ち入りが出来て、礼拝は出来る事は何となく知っていたが、その辺の事情に疎い妻は大丈夫?と狼狽えている。
 2階にある聖堂で母が祈りを捧げるのに付き添う。祈りが終わり、外に出ると神父さんが出て来て少々会話になる。神父さんは地元の方ではなく、欧州から派遣されてきた方。「She was born Yuli in 1940」と伝えると神父さんは大いに驚く。ちなみに神父さんは1941年産まれとの事で、1歳違い。そんな会話をしている廻りで信者なのか分からないけど、地元の人が食事をしている。生活に困っている人に炊き出しをしているのかも知れない。中には檳榔を噛んでいる人もいる。檳榔売りは台湾ではどこでも見かけるけど、檳榔を噛む人を見たのは初めてだ。
 ホテルは取っているのか、夕食をぜひ食べて行きなさいとお誘いを受けたが、さすがにそこまでは申し訳けない。丁重にお断りする。最後にお礼を言ってお暇頂く。
 さて、警察署のあたりを歩いてみる。

 警察署の前には日本家屋がある。10年前に訪問した時はカフェだったが、この10年の間に廃業したようだ。さて、母の生家はどこだろう。母の記憶は、警察署のそばにある2軒長屋が生家。その後、祖父は招集されて軍隊へ。終戦前後に元々住んでいた2軒長屋から別の長屋に引っ越したそうだ。その頃には、日本人はその長屋周辺に集まったのか集められたのか、一か所にまとまって住んでいたとの事。母の記憶では、警察署に拘束された被疑者のうめき声、叫び声が生家まで聞こえて来たとの事で、警察署の表か裏か、ごくごく近い所だったと思うのだが。
 警察署の脇に古そうな家屋が見えるので歩いてみる。

 ちょっと離れたところに長屋が見える。人が住んでいるのか、新しいクルマも停まっている。そんな様子を見ながら、話をする。母曰く、「ここじゃないわけ、ここは2番目の家」と。息子もその嫁も思い切り驚く。
 生家ではないけど、母に縁があるらしい方へと歩いてみる。通りに入ると、

 かつて日本人が住んだであろう家屋が並んでいる。人が住まなくなって長いのか、崩れる寸前という風情。

 こちらも廃屋となって長いのか、崩れすそうな雰囲気。中には人が住んでいる家もあって、衛星放送用アンテナなんかも立っているのだが、あと数年でこの界隈も日本統治時代の名残は消えるのかも知れない。
 そんな様子を眺めつつ歩いていると地元の人が一人出て来る。年齢は母と同じぐらいだろうか。母が日本語で話しかけるが、通じなかった。20年前の玉里は日本人が歩いていると、日本語で声をかけてくる人も多かったそうだ。日本統治下で日本語の教育を受けた層が厚かったのだろう。とは言え、1940年産まれの母が84歳になろうかという2024年。母が学校に行くようになったのは引揚後であり、6-3-3-4の新規学制1期生である。台湾で日本語教育を受け、日本語を話す事が出来た人達は、大部分が他界している時代になっている。
 後で調べてみると、この界隈、日本統治時代の公務員宿舎として紹介していたウェブサイトがある。

 警察署に近く、町役場も近い所。公務員宿舎が並ぶ界隈と言われるとそうなのか、と納得しそうな感じはある。
 日本家屋が並ぶ通りを抜ける。少々薄暗くなってきた。近くにあった全家、日本で言うファミリーマートと地元農協のタイアップ店舗を覗き、土産になりそうなものを買ってから、もう一度、警察署の近くに戻る。警察署を背に左手のエリア。やはり日本家屋が何軒か残っている。こんな感じの2軒長屋だったのよねと母の談。でもここじゃないわ、と。警察署の左手だったと思う、との事。現在、警察署の左手には中学校、台湾の言い方だと国民中学、と言うみたいだけど、の敷地になっている。