蘇る、つがるが行く奥羽路

 列車は土崎工場の横を抜けて秋田市内を北に向かっている。つい、土崎工場という旧名を出してしまうが、今は秋田車両センター、だっけ。

 市街地を抜けると車窓には太平山の姿。
 先程の特急むつつながりで、80年代のダイヤと今のダイヤを反芻しながらの旅となる。新潟から乗ってきたいなほ1号は長らく新潟-青森直通列車であった。手元に時刻表がないから何とも言えないけど、特急白鳥が無くなった時に、元白鳥のスジが新潟-青森直通のいなほとなり、朝一番に新潟を出るいなほ1号は秋田どまりになった筈。いわば今の乗り継ぎは昔は直通運転だった名残と言う事になる。
 更に時代を遡ると、新潟を8時半前後に出発する朝いちばんの特急いなほは、82年11月ダイヤ改定前までは大阪始発の急行きたぐにであった。記憶ベースだけど新潟を9時前に出て、秋田に14時、青森17時というダイヤだったと思う。今乗っているつがる3号。前歴を辿ると日本海縦貫線のトップナンバー、501列車にたどり着くのか、と思う。っーか津軽と思って乗っていた列車はきたぐにだったのか。
 日本海縦貫線繋がりでもう一本、思い浮かべた急行列車が、昼間走っていた急行しらゆき。金沢-青森を結ぶ気動車急行という今では想像の斜め上を行く列車。やはり82年11月改定で消えたのだが、これは特急格上げの上、福井発青森行き特急白鳥1号となった。ほんの一時期の事だが大阪白鳥、福井白鳥と二往復していた時代がある。福井白鳥も命としては長くはなく、85年3月改定で新潟と秋田で系統分割。列車は時を経てさらに散り散りになって行くわけだが、今でも越後湯沢を発着するはくたかのうちの1往復は福井始発となっている。時間帯的にも福井白鳥の時間。急行しらゆきの馴れの果て、と言えなくは無い。しかも福井始発のはくたかに乗ると直江津、新潟、秋田と乗り継いで一応は青森まで来れるようにはなっている。系統分割もここまで来ると何だかな、ではあるが、30年前の列車の残骸が残っている事に気が付いたのは楽しい。
 いい加減、文章を現代に戻して先に進めよう。列車は‭八郎潟まで停まらない。以前は土崎だの、追分だの、大久保に停まる特急まであって、特急停車駅のインフレ状態だったのだが、そのあたりは何時の間にか整理されて、定型が出来ている。進行方向右手に座っていると夏の田園が冬はどこまでも続く大雪原に。秋田を出た時には青空が広がっていたが、30分少々、八郎潟を出発するころには

 吹雪が舞い視界が無くなる。車内のどこかで「降って来たねぇ」「こんなものじゃないでしょ」なんて会話が聞こえてくる。単純に市内は晴れ、郊外は吹雪。そういう構図では無いだろうが、新潟も秋田もそんな事になっている。寒々とした杉林を眺めつつ北へ進む列車。選抜された特急停車駅に停まる。森岳は温泉地の最寄り駅。温泉の看板に書かれた旅館は数える程で空白が目立つ。降車客もまばら。過疎県の過疎過疎特急と笑ってはいけない。今の秋田の姿は10年後の日本の姿を映しているのだから。
 八郎潟森岳東能代と停まる間に4割ぐらい埋まっていた座席の主はそれなりに消えた、秋田から40分少々。だんだんと車内、寂しさに満ち満ちてくる。

 外の吹雪は止んで、純白と言い表したくなるような雪原が広がったが、この美しい景色を眺めるべき乗客は数少ない。秋田から停車する度、停車する度、降りる人ばかりで乗ってくる人がいないまま。秋田からのお客さんも暖かな車内で惰眠を貪る。
 県北の中心、大舘に14時半過ぎの到着。県内の用務客が目指すべき拠点だが、100㎞の道のりを乗り通すお客さんは案外と少なかった。その代り、初めて乗って来るお客さんがいる。東京との行き来を考えると、秋田廻りより新青森廻りが選択肢に入る区域になる。まぁ大舘から首都圏へは盛岡までの高速バスと新幹線の乗り継ぎが定着しているし、2往復しかないけど大館能代空港からの飛行機という選択肢もある。先程、いなほで見てきた首都圏-庄内の流動といい、新幹線〜在来線特急という選択肢が消えかかっているのかなと思わせる2014年冬の光景ではある。
 列車は県境へ向けて走る。山深く、雪深い中を走る。忘れた頃に現れるローカル駅のホームでは係員が丁寧に雪かきをしていた。この雪の季節、様々な人の手間に支えられ列車は走っているのだという事を告げる光景である。
 長いトンネルを抜けると外は同じく雪国。この列車の名前の由来、津軽の国である。そして坂を下って行くとそこは津軽平野の取っ掛かり、大鰐の街。

 秋田から2時間。ここで列車を降りる。雪まみれになった列車を見送るが、乗る時も雪まみれだった。