日本海のことなど

 高校まで秋田に居たから日本海は本当に身近な列車である。そして、父親の田舎が福井にあった関係で幼い時から日本海と言う列車に乗る機会にも恵まれた。最初に乗ったのが1981年。この時は行きは急行きたぐに、帰りは日本海3号だったから、今回無くなる二つの列車の両方に乗るという貴重な経験をしている事になる。

 行きはきたぐに。当時は大阪‐青森を直通する列車で、充当車両も当然、583系なんて事は無く、座席車は12系客車。寝台車は大阪‐新潟のみの連結で10系寝台車であった。当時の時刻表が手元に無いからうろ覚えで書くけど、青森発は12:55、16時過ぎに秋田を出て、21時過ぎの新潟で寝台車を連結。終着の大阪は8:27であったように覚えている。

 新潟までは自由席で、そこからはA寝台であった。勿論、一人で寝た訳は無く親との添い寝である。幅が100cmのA寝台なら親子添い寝でと言う事も有りだったのだろう。長距離の移動であり、非常に楽しみにしていた筈だが、今のなってはあまり記憶に残っていないのは残念で、象潟から遊佐にかけてであろうか、12系の車内に差し込む夕日と車窓に広がる夕景の日本海が強烈であった。

 家族4人の旅行だったが、まとまっては座れなったようで、同じボックスになったおばさんに構ってもらった記憶がある。どこまで行くのかと言う話になったのだろう。新潟から寝台車に乗るという話をして「おばさんも寝台車に移るの」「寝台車が一杯だったから座席車なの」なんて会話をしたような気がする。今思えば、元々座席車で乗り通すつもりだったに違いない。知らない事とはいえ、子供は残酷だなぁ自分の事ながら思ってしまう。

 記憶は新潟の暗いホームを歩いて寝台車に引っ越した場面に移る。デッキから中へと入った寝台車の暗さが印象的であったが、これは12系の明るい車内との対比に違いない。プルマンタイプのA寝台、オロネ10の下段ベットに入った記憶はあるのだが、そこから先の記憶は残念ながら無い。気が付けば降ろされていて、実家へ向かうクルマの中だった。

 帰りは日本海3号。こちらは当時、記憶が確かなら24系のモノクラス編成。3段式のB寝台で、行きと違って子供も一人1ベットであった。さすがに70cmでは添い寝は難しいし、あの頃の日本海にはA寝台は無かった筈である。22時半の乗車であり、既に減光した寝台車、確か中段と上段の4ベットが自分達に宛がわれたところで下段には既に先客が居たのではなかったかと思う。ベットに入ると直ぐに記憶が無くなり、翌日の事も全く覚えていない。こちらも重ね重ね、残念。

 その後の帰省は昼の列車で移動するようになったから、日本海に乗る機会は中々無かった。まぁ線路に近い所に家があったから列車としては眺める機会は良くあった。日本海3号が秋田を出発する時刻はちょうど前後を14系の急行津軽、20系の急行おが、24系の特急日本海3号と3本のブルートレインが続いていたから線路際に立つにはちょうど良かったのである。その中でも子供心に眩しかったのは24系の日本海。古い20系の良さがわかるには少し間があったし、座席車と寝台車の混結で屋根の揃わない津軽はやはり子供の目には見劣りがした。

 日本海の最盛期が何時だったのかは、受け取る人によって異なる所はあるかも知れないが、定期2往復のほかに臨時列車が設定された1985年から1990年に掛けてというのは、日本海の存在感が一際大きい時代だったかも知れない。世の趨勢は空路優勢であったが、関西と東北を結ぶ空路は整備が遅れた。秋田空港青森空港は80年代にジェット化された後も大阪便は長らくYS-11が2往復する程度であった。庄内に空港が出来るのは1991年を待つ事になる。そして未だに日本海岸を貫く高速道路は無い。当然、自動車で移動するには長距離過ぎるから、この頃でも関西から東北へは列車移動がメインであったかと思う。

 日本海の臨時列車が設定されたのは1985年の秋。日本海51、52号は583系充当であった。時刻表上の列車番号には電車を示す「M」の文字。グリーン車のマークに電車3段式B寝台を示す「★★」の記号。この時初めて親のカメラを借りて写真を撮りました。小学生の写真だし、ひどくしょぼい写真ではありますが、

 こんな感じ。10年ほど前にネガからスキャンした写真を載せておきます。

 583系日本海はこの1シーズンだけ。85年秋臨でも583系充当の日本海51、52号と20系充当の日本海53、54号があったと思うけど、それ以降のシーズンはずっと20系だった。84年に急行おがで眺めていた頃にはボロとしか思っていなかった20系も国鉄改革の頃、86年にはその価値が朧げに分かり始めていたから、注目の的になり始める。

 写真は1988年の秋。オリエント急行が日本に来るので秋田駅へ見学しにいった時に取った臨時の日本海。この頃には51,52号ではなく、81,82号と呼ばれていたような気がするが、その82号、ナハネフ22と白鳥を絡めて撮ってみたもの。この臨時日本海はさすがに定期列車との設備差が目立つようになったからか、特急と名乗れなくなり、「急行あおもり」と名乗るようになり、日本海ファミリーから外れる事になる。1990年の事だったか、91年の事だったか。

 ところで。
 秋田の高校。自分が高校生だった1990年代前半当時の修学旅行はほぼ全ての高校が京都と奈良に出かけていた。当然長距離の移動であり、新幹線の無い区間なので、行き来は在来線に頼る事になる。自分の高校は行きは昼行。当時は白鳥という列車があった。帰りは夜行。自分の高校は日本海3号だったが、需給の関係で修学旅行臨として20系の臨時列車を宛がわれる例もあったと聞く。
一日目は10時間掛けて秋田から京都へ移動し、京都2泊、奈良1泊。最終日の夜、21時の京都で列車に乗り、翌日の8時半過ぎに秋田到着。この時間だけ切り取ると夜行列車としては最良の設定と言っていいと思う。修学旅行の団体を乗せても儲からないだろうが、この頃の日本海は指定券が取りづらい列車だった。1981年と同じ24系客車だが、国鉄時代のうちに2段化されている。
 既に高校生になっているし、記憶はしっかりとしている筈だが、列車の中ではカードゲームをずっとやっていた印象しか残っていない。行きの座席車では向かい合わせにしても4人が限界だったけど、寝台車なら詰めれば8人座れる。補助椅子も使えば相当な人数が溜まれるのでカードをやるにはちょうど良かった。
 当時、高校ではUNOが流行っていて、「スピード」と称するローカルルールでやっていた。基本時計回りで廻る順番を無視して出せるカードを持っている人が次のカード出して良いというルール。一度誰かが仕掛けると次々状況が変わり、最終的に誰の所に飛んでゆくか分からないというとんでもないルールだった。随分と遅くまで、多分、金沢か富山ぐらいまではやっていたの出なかったかと思う。

 日本海3号にあたるスジにはお世話になったが、日本海1号に関する事がなかなか出てこない。大阪を夕方早々に出て、秋田の到着が翌朝5時半。青森が8時半と言う列車であり、この列車はどちらかと言うと青森の列車と言う印象が強い。立席特急券で昼間の客に解放されるのが東能代から先の区間。中々縁が無いのだが、2度乗ったことがあった。
 1度目は1988年の春だったと思う。近所の鉄道好きと一緒に復活運行する青函連絡船に乗るために出かけた時に、鷹ノ巣から青森までの間を立席特急券で。秋田から普通列車だけで青森に行こうとすると連絡船に間に合わないので日本海を使った次第。鷹ノ巣からの立席特急券は確か秋田市内の交通公社で事前に買い求めた。立席として開放する車両は秋田までのお客さんに宛がっている筈で、枕やシーツは仕舞われている状態の寝台車に乗り込んだ。鷹ノ巣までは非冷房のボックスシート50系と比べると冷房が効き、ソファーのようなシートの並ぶ寝台車は別世界だった。