朝5時半、東京駅。夜行バスで着いてからのパターンとして、
●自宅に向かう
京王線を撮りに行く
 の二つがあるが、今日はこれから別のパターン。向かったのはJR東の出札口。予めえきねっとで予約していた乗車券と特急券を引き取ると改札口へ。今日はこれから北に旅立つ。
 新幹線の改札に入る前に開いていた窓口に寄り道。手元の切符の変更を掛けてみるが残念だがら空席なし。仕方ないので改札口の中へ。

 これから始発列車が動き出す新幹線ホーム。乗るのは上越新幹線の始発、とき301号。このときを送り出す20番ホームには回送列車が停車中。21番線も回送列車。ときの発車は6:08なのだが、先発の回送、6時前に発車していった。入れ替わりに

 入って来たのが301C、J13編成となる。指定席を用意してきたのでそちらに座る。乗車率は10%にも満たないぐらい。自由席はもう少し乗っているだろうか。
 向こうのホームから6:04に盛岡行きが発車した後を追い、新潟ゆきのときも動く。まだ暗い東京の街が流れ地下トンネルに入ると上野駅。東京よりも多くのお客さんを集める。さらに列車は北へと向かう。

 荒川を越える頃に東の空が明らんで来た。今日は朝早く起きた、というより夜の続きだからかも知れないが、一日が長くなりそうな雰囲気がする。
 外が明るくなり大宮到着。自由席を中心にお客さんが大量に乗って来る。東京駅を出て30分。時間が経っている分、始発に対するハードルは下がっている。朝の東北新幹線に乗っても案外と大宮乗車は多かったりする。
 ソウル帰りの恥辱を綴りつつ、列車は雪雲の下を目指して突き進んでゆく。

 7時前の高崎で雪山が見えた。この時間、通勤ラッシュの真っただ中のようで、下りホームから発車する上り新幹線に乗客がちらほら。上りホームにも次の新幹線を待つ長い行列が出来ている。
 高崎を出るとトンネルが多くなる。一瞬見えた上毛高原はうっすら雪化粧。そしてまたトンネル。ずっと続く暗闇が明るくなると越後湯沢である。

 高崎からの25分でこの世界。この変化は激しい。ちょうど恥辱がソウルからの帰り道に眺めた雪雲の話になっていて、空から見た雲の下の世界に今いるんだと妙な感慨に耽る事になる。
 越後湯沢からもトンネル串刺しの世界。浦佐でも雪は激しく降っていて、

 消雪用のスプリンクラーの水が窓を叩く。まるで雨にあたったかのようだが、水音は何倍も激しい。
 浦佐からもトンネルが続く。抜けるところが越後平野。長岡の近郊となる。

 長岡の市街地。だいぶ雪が少ない。同じ新潟と言っても山間部と平野では相当に雪の重みが違う。
 通勤時間帯なので自由席には相当のお客さんが乗ってきたようだ。指定席は少々お客さんが減ったぐらいで相変わらず閑古鳥が啼いている。
 列車は越後平野をさらに北へ。まもなく沿線の雪が消えた。空も晴れあがる。

 東京のドピーカンとは違う、何か不穏な影を孕んだような青空だが、それでも完全に雪に閉ざされた越後湯沢の世界からはだいぶ遠い感じがする。
 外が晴れたまま新潟の市街が現れて列車は定刻に新潟到着。東京から2時間少々。8時過ぎの新潟駅はラッシュの真っ最中。
 通勤の波に揉まれつつ新幹線乗場から在来線乗場へ。今日は新潟が目的地ではなく、更に先へと進むことになる。接続列車は

 特急いなほ1号、秋田行。
 新幹線が新潟に着いたのが8:13、いなほの発車は8:27。接続は14分。乗換標準時間は8分となっているから、結構余裕を持った接続だ。以前は新幹線接続特急って接続時間ギリギリで設定されている事が多かったと思うが、多少余裕を持たせるようになったのだろうか。そのおかげで反対側のホームから写真を撮ったりできるのだけど。


 どこで雪にやられたのか、真っ白な塊をあちこちにまといつつ発車を待つ老優、485系1000番台に乗り込む。こちらも指定席を用意してきたが、

 指定席、がら空きである。むしろ16席しかないグリーン席の方が乗車率としては良いかも知れない。
 席に落ち着くとまもなく出発。流れ出したオルゴールは鉄道唱歌

【今日の駅弁】焼漬鮭ほぐし弁当  ¥1,050 株式会社三新軒

 三新軒は新津の駅弁業者。新潟には新潟三新軒があり、新発田には新発田三新軒があって、元々は同じ会社だったみたいだ。
 新津は古くからの鉄道の街だが、新幹線の通らない駅を本拠としていては商売にならないと見えて、新潟駅にも進出している様子。


 鮭の焼き漬けとは焼き鮭の焼いた後に醤油漬けにする新潟の郷土料理だそうだ。今まで知らなかった料理だが、まぁ、酒に良く合う料理で。ビールを一緒に買って正解であった。

いなほで北へ その2


 列車は阿賀野川を渡り新潟の郊外へと歩みを進めている。単線区間の混じる白新線。朝ラッシュに通勤列車が入ってくる分、行き違いやら何やらで列車の足は鈍い。新幹線を降りた後だけに余計に感じる。

 新潟を出て10分、15分。大して進んでいないのに、外は雪景色に戻った。しかも横殴りの吹雪になった。新潟が晴れていたのはたまたまかも知れないけど、雪がないのは一種のヒートアイランド現象だと思う。新潟に限らず、秋田でも山形でも市内は雪が少ない。青森まで行くと、そんな余裕はないと思うが。

 新発田を出てしばらくすると今度は青空。でも一面は雪原。何の痕跡もない大雪原はきっと先程まで雪に襲われていたから、かもしれない。
 越後平野の果て、という感じの村上に停まる。指定席とグリーン車に一人二人乗車があって、列車は動き出す。間もなく

 車内の照明、予備灯を残して消える。直流1500Vと交流20000Vの切り替え地点、デットセクションを通過中。速度は案外と落ちないが、次に照明が戻るまで1分以上掛かる。ここを越えると東北に来た感じが満ちてくる。行政エリアでいうとまだ新潟県だから、勝手な感慨ではある。でも世の中の認識とそんなに外れていないと思う。
 列車は速度を落とし、窓の左手に海が見えてくる。

 窓のすぐそこが荒れる日本海。今日は鉛色まではいかないが、色彩の少ない世界の下、海が荒れ狂っている。東京を発って3時間少々。東京から一番近い日本海、というわけではないが、時間が掛かっていない割にはその変化というか、荒々しさが激しい。新幹線からの段落とし感と言い、日本海側の恵まれなさを実感できる今日の移動だ。
 そんなことを思っていると、車内販売がやって来る。この列車は秋田まで車内販売の乗務があると発車直後に案内があったが、新潟から1時間、ようやく現れた。先頭、壁で区切られたグリーン室まで丁寧に一巡し戻る。多少声が掛かるが、お客さんの絶対数が少ないから売り上げも少ないだろう。気の毒になり、声をかける。

 アルコールは?と聞くとビールが某メーカーのもの、それに酎ハイとハイボールと仰るのでハイボールを頂く。新潟と秋田という酒どころ同士を結ぶ列車なのに、日本酒の積み込みが無いとは甚だ遺憾である(笑)
 それにしても車窓に広がるこの景色

 半分酔っ払いながら眺めるのは、沿線の人たちに対しては申し訳ない。そしてある意味では贅沢な事なのかも知れない。
 列車は笹川流れの厳しい景色を車窓に映し出しながら北へと向かっている。すれ違う普通列車や特急列車は押しなべてがら空き。4両つないだ普通列車が空いているのは通学ラッシュ明けが故、仕方ないだろうが、稼ぎ頭の特急が空いているのは、飛行機にやられっ放しだからだろうか。新幹線が使える秋田や青森は五分五分の勝負らしいが、在来線の距離が長い庄内は完全に負けているようだ。いなほも次のダイヤ改定で車両の世代交代が図られるようだが、遅きに失した感はある。
 岩場を間近に眺め、波が洗う海岸が足元に広がる景色が20分程続くと笹川流れも終盤となる。

 久しぶりにまとまった平地が現れて府屋の駅。ここでも乗り降りするお客さんは無く、列車は山形県に向けて駆け出す。空に少し青空が混じるようになってきた。海も心なしか落ち着いたように見えるから不思議。
 村上からずっとお付き合いしてきた日本海が分かれてゆくとどこまでも広がる大雪原の中、列車は走る。時折がさっと何かが当たる音がする。列車に纏わりついた雪が氷の塊になって落ちてくる、らしい。最初のうちはどきっとしたが、何度も数を重ねるうちに慣れてしまった。
 列車のターゲットである庄内に入ると鶴岡に到着。ここで指定席からも降りるお客さんがちらほら。自由席には入れ替わり乗って来るお客さんがいたようだが、指定席を選ぶ人は皆無。元々空いていた列車はさらにがら空きになる。酒田でも同じく降りるお客さんが目立ったから、

 1号車指定席のお客さん、自分の他には1人だけ。
 10時43分、定刻に出発。列車は青空の広がる庄内平野を北端へ向けてひた走る。じきに車窓には

 鳥海山が姿を現すようになる。まぁ、気難しいこの山は裾野をちょっと見せるだけで

 山容は隠れたままなのだけど、それでも車窓の存在感は計り知れない。先程の笹川流れと言い今度の鳥海山といい、今一番ホットな列車、寝台特急あけぼのの車窓から眺める事の出来ない景色である。厳しく美しい羽越線の名所を見ることなく通り過ぎるのは勿体ないなぁと思えてくる。けどまぁ、あけぼのは元々羽越線の列車ではないから、まぁ良いのかも知れない。
 庄内平野の北端まで来ると車窓左側、再び海が顔を出す。

 また重々しい空、荒れ狂う波。きっと風も強いのだろう。雪は吹き飛ばされて海岸線には殆ど残っていない。人が住むには厳しい環境で、従って人煙稀な県境と言う事になる。
 重たい海をちらちらと見つつ、がら空きの列車は山形県から秋田県へ。国道7号を走るクルマに秋田ナンバーが増えた。海が消えると平地が広がって人家も増えてくる。先程からの羽越線、そんな景色の繰り返し。久しぶりに停車するのは象潟。このあたり、空港からも遠いし高速道もなく、在来線特急だけが頼りなのだが、今日の象潟に降りる人は稀。次の仁賀保TDK企業城下町だが、やはりいなほを利用する人は少なかった。

 本荘の平野に来るとまた空は晴れあがる。冬の間の東北で、これほど綺麗に晴れあがるのは珍しい。どちらかというと外に立って乗っている列車を撮りたくなるようなそんな今日の秋田の天気。でもなぜか

 海が見えるとその向こうは鉛色の世界。沖合は時化ているのかも知れない。秋田に向けての最後の区間。海岸線の向こうに男鹿半島、視線を手前に移してゆくと秋田港の火力発電所も見えている。秋田に来たなぁと思う瞬間である。
 列車は海と別れて内陸部へ。今までのパターン同様に街が近づく前触れだ。そして

 大きな川が現れるもの一緒。酒田には最上川が付いている。本荘には子吉川。秋田には雄物川。新潟には阿賀野川がいた。川が大きければ街も大きくなる。今渡雄物川雄大さが秋田の街の大きさを物語る。
 住宅地に列車が入り、少々高いビルも見えてくると間もなく秋田到着。定刻より2分3分遅れただろうか。最後に鉄道唱歌のオルゴールが流れ、接続列車が案内される。一番最初に告げられるのは東京行きの秋田新幹線こまち。何でも東京優先の現れかも知れないし、もはや秋田にとっていなほは東京へ行く手段ではない事の現れなのかも知れない。
 ホームに列車が入ると10人近い清掃の人がいて、こちらに向かって深々と一礼してくれる。6両の列車の割には大掛かりな人数だし、深々とした一礼が申し訳ないほど客が乗っていないけど、とにかくそういう体制で列車を迎えてくれた。

 雪と戦って3時間半。列車は秋田に到着。東京からは6時間少々掛かっている。おそらく、この列車で東京から来た人は皆無だったに違いない。カメラを向ける人が数人。首都圏のそれを比べると非常におとなしい、穏やかな出迎えである。

 こんなアイテムも撮っておきたい。地方ではずらっとならぶ乗場案内の看板はお馴染みだが、こんな景色も春になれば無くなる。

インターバル 秋田

 この後の列車までは1時間ほど。まずは改札の外へ。時間的にはお昼時だが、その前にやりたいことがある。

 秋田駅前に立つ。時々来ているからこの景色が秋田駅前だと言う事は知っているけど、自分がすごした20年前の秋田駅前と大きく違う今の景色には、どうしても馴染めない。何か別の街にいるのではないかと言う錯覚を覚える。
 今日は市民市場まで足を伸ばして買い物をする。調味料やら何やら、ネットで買いづらい物で手にしたいものがいくつかある。

 キャリーバックを引いていたのだが、この道には泣いた。そりゃ雪の上じゃソリ引っ張る方が圧倒的に楽だよなと思う。ソリ付のキャリーバック、なんて無いだろうなぁと思いつつ、秋田駅近くの裏道に入ると郵便局はどこですか?なんて道を聞かれる。どう見てもよそ者にしか見えないだろうに。まぁすぐ目の前に郵便局があったから教えましたけど。

 目的の市民市場に到着。昔よりもこぎれいになっている。リニューアル10周年と書かれているから2004年のリニューアルか。そりゃ知らんわと思う。

 目的は味噌、醤油、それに酒粕。この酒粕というのが案外とネットでは売っていない。単価も安いから無理だろうが、横浜辺りのスーパーで適当な酒粕を買おうという気にはなれないもので。
 ついでに比内地鶏スープといぶりがっこ。地酒のワンカップ各種を買い求めて駅へ戻る。帰りは雪かきしてあった歩道を選んで遠回り。その方が楽だし早かった。
 駅に戻る。みどりの窓口に寄り道して再び手元の切符、変更にチャンレンジ。個室に一室、空きが出ていて確保成功。これは嬉しい。最後に時間切れが気になりつつもバター餅を探す。これも確保できた。もう残り時間は10分を切っている。そろそろ列車に向かう。昼食は二食連続だが駅弁にしよう。

蘇る、つがる

 さて乗り込む列車は秋田発13:08、特急つがる3号、青森行き。
 「津軽」を名乗る列車には殊のほか思い入れがあり、思い出がある。未だに幾つもの夜を鮮やかに思い出すことができるのだが、最近になって「つがる」を名乗る列車がぽんと登場した。いや最近でもないか。
 奥羽線列車史をひも解くと秋田-青森を結ぶローカル優等列車特急つがる、の前は特急かもしかであった。天然記念物でありながら街中にも姿を現す、馴染みのある動物である。ではあるが農家の人からすると害獣でもあり、イマイチ受け入れられなったらしい。
 更に辿ると盛岡-秋田-青森直通特急で「たざわ」だった時代は長く、その頃には山形-秋田-青森の系統は特急つばさ、秋田-青森だけを結ぶ系統は特急むつであった。まさしくこれから乗る特急と同じ区間を走る列車。「むつ」と平仮名にしてしまうから意味がぼやけるが、漢字で書くなら旧国名の「陸奥」。青森に向かう列車としては相応しい名前で、りんごを大きく描いたむつのヘッドマークを懐かしく思い起こす。
 でも「かもしか」の代わりに採用された名前は「むつ」ではなく「つがる」。広義的には福島、宮城、岩手、青森の4県が陸奥国であり、それよりも狭い弘前周辺を指す津軽の方が奥羽北線の列車としては相応しいという判断よりも、「津軽」と「むつ」の列車の格が今回の名称変更には効いたのも知れない。特急むつも先史を辿ると秋田-青森間の急行むつとなって、奥羽北線における功労者ではあるが、急行津軽の功労には及ばない。
 そんな訳で、秋田発青森行きの列車がつがるを名乗る事に少々の戸惑いを覚えつつ乗り込む。まぁこんな事で戸惑っていては行けないのかも知れない。青森から函館へ向かう列車が白鳥を名乗り、東京から青森に向かう列車がはやぶさを名乗る時代なのだから。

 首都圏と全く関係ない、ローカル特急であるつがるだが、使用される車両は比較的新しい751系。元々東北新幹線の八戸開業前夜にはつかり用として投入された車両が東北新幹線新青森開業で御役御免となり、第二にステージを奥羽北線に求め、今はこの地にいる。秋田目線で言うと曲がりなりにも首都圏連絡の役目を担う特急いなほが車歴35年を超える485系で運用され、秋田-青森のローカル特急に新車に等しい751系が入るのは不思議と言ったら不思議なのだが、直流機器を積まない751系は新潟まで行くことが出来ず、かといって青函トンネル用の保安装置も積んでいない事から、函館へ行くことも出来ず、やむなく奥羽北線に配属されたという所だろうか。それ以外に使えそうな所って、磐越西線の郡山-会津若松ぐらいしか思いつかない。

 4両つないだ列車は自由席2両、指定席1.5両、グリーン車半室。今回は秋田駅で自由席券を買い求めたので自由席に乗る。2両の自由席は4割ぐらいの乗りだろうか。先程の特急いなほ指定席があまりに空いていたので、今度の様子は乗っている、という風に見える。
 チャイムが鳴って自動放送、英語案内も添えられて、21世紀の国際社会を走る特急列車、の体で列車は走り出す。まもなく

 車窓を旧秋田機関区が流れる。ここが現役だったころはあちこちにあるポイントの凍結を防ぐべくスチームが上がっていた。廃墟の旧機関区にそんな温かみは無く、冷たい雪に埋もれている。

【今日の駅弁】山菜こまち弁当 ¥800 株式会社関根屋

 伝統の秋田駅構内営業関根屋さんだが、この頃は冷遇されていて、一番便利な売り場を追い出されている。今日はわざわざ関根屋さんの売店まで脚を伸ばして買い求めた。そうしたらホームでも関根屋さんが立ち売りをしていて、しまった、と思ったわけだが。

 で、今日の一品はこちら。掛け紙にE6系の写真。スーパーこまち人気にあやかりたい安直弁当かなと思いつつ蓋を開ける。

 山菜ごはんがでんと構え、脇には天ぷら、そしてあんころ餅。まぁ安直と言ったら安直だが、実はこの中にとんでもない人がいた。ばっけみそ。これぞ秋田の味。やはり関根屋さんは分かってらっしゃる。

蘇る、つがるが行く奥羽路

 列車は土崎工場の横を抜けて秋田市内を北に向かっている。つい、土崎工場という旧名を出してしまうが、今は秋田車両センター、だっけ。

 市街地を抜けると車窓には太平山の姿。
 先程の特急むつつながりで、80年代のダイヤと今のダイヤを反芻しながらの旅となる。新潟から乗ってきたいなほ1号は長らく新潟-青森直通列車であった。手元に時刻表がないから何とも言えないけど、特急白鳥が無くなった時に、元白鳥のスジが新潟-青森直通のいなほとなり、朝一番に新潟を出るいなほ1号は秋田どまりになった筈。いわば今の乗り継ぎは昔は直通運転だった名残と言う事になる。
 更に時代を遡ると、新潟を8時半前後に出発する朝いちばんの特急いなほは、82年11月ダイヤ改定前までは大阪始発の急行きたぐにであった。記憶ベースだけど新潟を9時前に出て、秋田に14時、青森17時というダイヤだったと思う。今乗っているつがる3号。前歴を辿ると日本海縦貫線のトップナンバー、501列車にたどり着くのか、と思う。っーか津軽と思って乗っていた列車はきたぐにだったのか。
 日本海縦貫線繋がりでもう一本、思い浮かべた急行列車が、昼間走っていた急行しらゆき。金沢-青森を結ぶ気動車急行という今では想像の斜め上を行く列車。やはり82年11月改定で消えたのだが、これは特急格上げの上、福井発青森行き特急白鳥1号となった。ほんの一時期の事だが大阪白鳥、福井白鳥と二往復していた時代がある。福井白鳥も命としては長くはなく、85年3月改定で新潟と秋田で系統分割。列車は時を経てさらに散り散りになって行くわけだが、今でも越後湯沢を発着するはくたかのうちの1往復は福井始発となっている。時間帯的にも福井白鳥の時間。急行しらゆきの馴れの果て、と言えなくは無い。しかも福井始発のはくたかに乗ると直江津、新潟、秋田と乗り継いで一応は青森まで来れるようにはなっている。系統分割もここまで来ると何だかな、ではあるが、30年前の列車の残骸が残っている事に気が付いたのは楽しい。
 いい加減、文章を現代に戻して先に進めよう。列車は‭八郎潟まで停まらない。以前は土崎だの、追分だの、大久保に停まる特急まであって、特急停車駅のインフレ状態だったのだが、そのあたりは何時の間にか整理されて、定型が出来ている。進行方向右手に座っていると夏の田園が冬はどこまでも続く大雪原に。秋田を出た時には青空が広がっていたが、30分少々、八郎潟を出発するころには

 吹雪が舞い視界が無くなる。車内のどこかで「降って来たねぇ」「こんなものじゃないでしょ」なんて会話が聞こえてくる。単純に市内は晴れ、郊外は吹雪。そういう構図では無いだろうが、新潟も秋田もそんな事になっている。寒々とした杉林を眺めつつ北へ進む列車。選抜された特急停車駅に停まる。森岳は温泉地の最寄り駅。温泉の看板に書かれた旅館は数える程で空白が目立つ。降車客もまばら。過疎県の過疎過疎特急と笑ってはいけない。今の秋田の姿は10年後の日本の姿を映しているのだから。
 八郎潟森岳東能代と停まる間に4割ぐらい埋まっていた座席の主はそれなりに消えた、秋田から40分少々。だんだんと車内、寂しさに満ち満ちてくる。

 外の吹雪は止んで、純白と言い表したくなるような雪原が広がったが、この美しい景色を眺めるべき乗客は数少ない。秋田から停車する度、停車する度、降りる人ばかりで乗ってくる人がいないまま。秋田からのお客さんも暖かな車内で惰眠を貪る。
 県北の中心、大舘に14時半過ぎの到着。県内の用務客が目指すべき拠点だが、100㎞の道のりを乗り通すお客さんは案外と少なかった。その代り、初めて乗って来るお客さんがいる。東京との行き来を考えると、秋田廻りより新青森廻りが選択肢に入る区域になる。まぁ大舘から首都圏へは盛岡までの高速バスと新幹線の乗り継ぎが定着しているし、2往復しかないけど大館能代空港からの飛行機という選択肢もある。先程、いなほで見てきた首都圏-庄内の流動といい、新幹線〜在来線特急という選択肢が消えかかっているのかなと思わせる2014年冬の光景ではある。
 列車は県境へ向けて走る。山深く、雪深い中を走る。忘れた頃に現れるローカル駅のホームでは係員が丁寧に雪かきをしていた。この雪の季節、様々な人の手間に支えられ列車は走っているのだという事を告げる光景である。
 長いトンネルを抜けると外は同じく雪国。この列車の名前の由来、津軽の国である。そして坂を下って行くとそこは津軽平野の取っ掛かり、大鰐の街。

 秋田から2時間。ここで列車を降りる。雪まみれになった列車を見送るが、乗る時も雪まみれだった。

津軽の国のステンレス

 大鰐の駅で降りたのは数人。温泉宿の迎えが来ていたりして駅名の大鰐温泉を少々映し出している様子。その隣には小さな駅舎。

 こちらは弘南鉄道大鰐線大鰐駅津軽平野の普段使いである弘南鉄道の駅は昔ながらの大鰐駅。以前はここに窓口があって切符が買えたと思うのだが、何時の間にか無人化されている。乗車券は反対側、北口で購入してくださいとの事。無人の改札をくぐり、‎再び構内へ。

 上りホームの行先、金沢や大阪の文字が残るのはここが日本海縦貫線の一員である事を物語るが、先程振り返って来たとおり、既に直通列車は無い。一方、直通列車がまだ走る上野の文字がないのはどうしたことか。
 今日はこの先の細い路地がごとき跨線橋に分け入る。乗るのは弘南鉄道大鰐線
 北側の駅舎に降りる。こじんまりとしているが係員が居て、自動券売機があり、暖かな待合室がある。電車は昼間1時間毎の運転。長らく30分毎の運転を頑張っていたが、ついに耐え切れなくなり昼間は1時間毎の運転になってしまった。それでもJRの汽車よりは運転本数、多いのだろうけど。

 待っているのはステンレスの電車。近代的と言ったら近代的だが、東急の7000系弘南鉄道にやって来たのは1988年の事だがら、25年以上津軽の地で頑張っている事になる。それなりの時間を刻んできた。
 出発まで20分程の間があるが、中に入れて貰えたので撮影をしてみる。

 車内の様子。何と言う事のない3つドアロングシート車。ではあるが、この臙脂色のシート、どこか同時期の京王5000系を思い起こす雰囲気。

 つり革はちょっと変化した。以前は「東横のれん街」とか「東急百貨店」とか、東横線時代のそのままの姿だったのだけどね。中学生の頃に、大鰐線で「東急百貨店」の文字を見て、おぅと思ったのを思い出す。

 そしたら裏側は東横線時代のそのままだった。
 このころにはお客さんが少々。おばちゃんが数人に通学らしい小学生が10人ぐらい。2両の電車を持て余す程度のお客さんが乗ってきている。

 駅構内にたたずむ古い機関車を見ていると間もなく発車時刻になる。東横線からやってきて25年。幾度も通ったであろう津軽平野の雪原にステンレスの電車が足を踏み出す。

 二駅、三駅で小学生が降りてゆき、車内閑散とする。こんな調子だとこの電車も先行き不透明だよなぁと思っていると別の駅で今度は20〜30人の小学生。更に進むと今度は高校生が乗ってきて電車が賑やかになる。小学生が降りた後も、車内はそれなりに賑やかなまま。
 雪原が何時の間にか弘前市内に入って家が並ぶようになる。高校生だけでなく一般のお客さんも増えたから郊外電車の匂いはしている。
 30分程で中央弘前の駅に到着。16時になっているがまだまだ明るい。冬至のころならそろそろ日が落ちる頃だが、冬至から1か月半が経って、それなりに日は伸びている。

 逆光の中にステンレスの電車が佇む。振り返ると 

 今の電車でやってきた乗客が三々五々、改札へと向かう。
 今着いた駅は中央弘前駅。そこからJRの弘前駅へ移動する。中央の名に違わず、弘前城址をはじめ旧市街には近い中央弘前駅から市内を歩き、どちらかというと市街地の端にあたるJRの駅まで。秋田でも苦労したが、弘前も雪道はバリアフル。キャリーバックを手に持って雪道を歩いたから、うんと時間がかかった。

 JRの弘前駅に着くと16:20を過ぎたところ。街を歩いている間に雪に降られなかったのは幸いであったが、次に乗る列車、青森駅行きの普通列車

 701系の顔には雪が全面に纏わりついている。先程乗って来た弘南鉄道7000系が1964年製造の御年50歳。津軽にやってきてからでも25年という経歴の持ち主だが、こちらは1993年製造だからまだ21年選手。この電車が赤い客車を駆逐したのはつい最近と思いつつも、もう20年経っているのである。
 4両つないだ電車、階段の近くは混んでいる一方で階段から離れた先頭車には空席が目立つ。その先頭車に席を求める。列車は定刻に出発。高校生が半分、所要客が半分といった感じの車内。新幹線乗り継ぎらしい大きな荷物のお客さんもいる。自分もキャリーバックを持っている。同じような外来のお客さんには違いないが、この後たどる道はだいぶ違う。
 暮れてゆく津軽路、雪道通って20年の701系に揺られて先へと急ぐ。駅に着くと高校生が降りて代わりに別のお客さんが乗って来る。「青森って後ろだったよね」なんて声が聞こえるから青森までのお客さんが多いのだろう。外はだんだん暗くなる。
 新青森で荷物の大きなお客さんが降り、少々は残り、代わりにお客さんが乗って来る。少々停車時間があってから、最後の一駅に踏み込む。
 列車はゆっくり。そして停まる。信号が赤で停まっているそうだ。5分は停まっただろうか。接続列車が大丈夫かなぁ?みたいな会話も聞こえる。新幹線から奥羽線の列車をワンポイントリリーフにして、青い森鉄道に乗り換える出張客らしい。世の中には色々な流動があるが、どちらかというと割を食った方の移動に違いない。
 列車はようやく動き出す。津軽海峡線からの列車が遅れた関係での信号停車だそうだ。列車はその遅れを引きずったまま青森に到着。

 相変わらずの雪まみれ。折り返し弘前に戻る列車は30分後の発車にも関わらず席を求める人がちらほらと。

 手元の切符。青森の一つ先、津軽線油川までとしているが、これはある種のフェイク。ここ青森が目的地である。東京を発って12時間。日が暮れてもいる。青森に一泊して、酒をしこたま飲みながら、東北の美味しい食べ物を頂きたい気分ではあるけれど、残念な事に、本当に残念な事に、持ち時間は限られている。

 青森の駅前に出て、軽く買い物。今晩頂きたい海の幸の代わりに乾き物。鮭とばを頂く。夕食の代わりに駅弁を。そしてビールと一本、一本。もう一本。再び改札口へ。

 表示されているのは青森始発で直接上野へ向かう唯一の特別急行寝台特急あけぼの。今一番ホットな、と昼間書いた覚えのある列車。
 今晩の食事と酒をしこたま買い求めてホームに戻る。乗客と思しき人たちが三々五々ホームに散り、列車を待っている。駅そばのスタンドも盛業中。18:10までの営業だそうだ。
 18時になろうとする頃、上野行き寝台特急あけぼのが到着しますの案内。ホームに緊張が走る。遠くにライトが小さく光る。それが大きくなってくると

 ディーゼル機関車エスコートされて、あけぼのの車両が入って来る。
 ここで少々寝台特急あけぼの、というより奥羽線筋の夜行列車を振り返ってみたい。
 東北新幹線が開業する前夜の奥羽線筋、羽越線筋の夜行列車はこんな感じだったと思う。実家に戻れば当時の時刻表があるからより詳しく書けるけど、今は記憶ベース。ついでに夜行列車の需要に影響を及ぼしそうな出来事にも触れてみる。

【82年10月 東北新幹線開業前夜】

 ★奥羽線経由 秋田・青森方面ゆき
 急行津軽1号   上野19時半頃→秋田6時前後→青森9時前後 奥羽北線 秋田〜弘前をターゲットとする設定 10系寝台車、12系座席車
 特急あけぼの1号 上野21時前後→秋田7時前後→青森10時前後 奥羽北線 秋田〜弘前をターゲットとする設定 24系寝台車
 特急あけぼの3号 上野21時半頃→秋田7時半頃        奥羽南線 湯沢〜秋田をターゲットとする設定 24系寝台車
 急行津軽3号   上野22時前後→秋田9時前後→青森12時前後 奥羽南線 山形〜秋田をターゲットとする設定 10系寝台車、12系座席車
 急行おが3号   上野22時前後→秋田9時前後→男鹿10時前後 奥羽南線及び観光需要をターゲットとする設定 14系座席車
 ★羽越線経由 酒田・秋田方面
 急行鳥海     上野21時前後→秋田7時前後        羽越線 酒田‐秋田をターゲットとする設定  10系寝台車、42系座席車
 急行天の川    上野22時半頃→新潟5時前後→秋田10時半頃 羽越線 新潟‐酒田をターゲットとする設定  20系寝台車 

 今のあけぼのがカバーするエリアを7本の夜行列車で分担していた事になる。正確にいうとおがは季節列車という扱いだが、運転日は結構長かったと思うので、数えていいと思う。
 寝台を利用するか、座席にするか。出発時間は何時頃が良いか。到着地には何時頃に着きたいか。そんな様々な事情を踏まえた上で7本の列車から1本を選べば良い訳で非常にきめ細かい設定であった。
 また、夜行列車のライバルとなる交通機関の状況も合わせて記してみる。

 ●81年 6月 秋田空港ジェット化 羽田線4往復就航   
 ●82年 6月 東北新幹線 大宮‐盛岡開業
 ●82年 6月 秋北バス 大舘−盛岡 みちのく号 運行開始

【82年11月 座席急行の寝台特急格上げ進む】

 82年6月に東北新幹線が暫定開業、11月には本格運用が始まる。
 秋田からは盛岡行きのたざわ、福島ゆきのつばさ、新潟ゆきのいなほ、3系統の新幹線接続特急が設定された。青森からは盛岡行きのはつかりが設定される。
 これに伴い夜行列車は再編。東北線方面の夜行列車はだいぶ減ったが、奥羽線方面はまだしばらく夜行列車の天下が続く。
 82年11月以降、85年3月の東北新幹線上野開業までのラインナップは次の通り。

 ★奥羽線経由 秋田・青森方面ゆき
 特急あけぼの1号 上野19時半頃→秋田6時前後→青森9時前後 奥羽北線 秋田〜弘前をターゲットとする設定 24系寝台車
 特急あけぼの3号 上野21時前後→秋田7時前後→青森10時前後 奥羽南線 湯沢〜秋田をターゲットとする設定 24系寝台車
 特急あけぼの5号 上野21時半頃→秋田7時半頃        奥羽南線 湯沢〜秋田をターゲットとする設定 24系寝台車
 急行津軽     上野22時前後→秋田9時前後→青森12時前後 奥羽本線 山形〜弘前をターゲットとする設定 20系寝台車、座席車
 急行おが(季節臨) 上野22時前後→秋田9時前後→男鹿10時前後 奥羽南線及び観光需要をターゲットとする設定 14系座席車
 ★羽越線経由 酒田・秋田方面
 特急出羽     上野22時前後→秋田8時前後        羽越線 酒田‐秋田をターゲットとする設定  24系寝台車
 急行天の川    上野22時半頃→新潟5時前後→秋田10時半頃 羽越線 新潟‐酒田をターゲットとする設定  20系寝台車

 急行鳥海、急行津軽1号が特急に格上げされて寝台専用列車になる。座席車は季節列車の急行おがを除くと急行津軽だけとなる。
 若干時系列が曖昧だが、急行津軽が20系寝台車主体となり、座席車は3両だけに。これが混雑を招き、おがの14系と津軽の20系をコンバートする処置が取られる。
 その後、84年2月改正だったかで、紀伊に使われていた寝台車を津軽に転用する形で、14系座席車4両+14系寝台車6両になった、と言うように覚えている。

 85年3月の東北新幹線上野開業の時に急行天の川が廃止。繁忙期だけは上野‐酒田の臨時急行として90年代中頃までは設定されていた。14系座席車だったから定期列車の時とは性格がだいぶ異なる。
 
 ライバル交通機関の状況は次の通り。東北自動車道の延伸と共に夜行高速バスが設定されるようになった事や、青森空港のジェット化が進んだ事があげられる。この動きが88年以降の夜行列車削減の動きにつながる。

 ●82年11月 上越新幹線 大宮−新潟開業
 ●82年11月 田沢湖線電化 特急たざわ運転開始(6往復)
 ●85年 3月 東北新幹線 大宮−上野開業
 ●85年 3月 弘南バス 弘前−盛岡 ヨーデル号 運行開始
 ●86年 7月 東北自動車道 十和田IC-碇ヶ関IC開通
●86年11月 特急たざわ増発(6→9往復)
 ●86年12月 弘南バス 品川‐弘前 ノクターン号 運行開始
 ●87年 7月 青森空港ジェット化 
 ●88年 2月 秋田中央交通 新宿−秋田 フローラ号 運行開始
 ●88年10月 庄内交通   渋谷−酒田 夕陽号 運行開始

【88年3月 夜行列車削減始まる】

 奥羽線筋の夜行列車に明確な変化、というか衰退が見られるようになるのは88年以降の事である。変化点は二つ。一つは列車本数が減って今までの2本の列車で分担していた役割を1本の列車に集約するようになった事。もう一つは山形新幹線の工事が進んで、奥羽線福島‐山形が通過できなくなった事である。
 まずは88年3月改定。青函トンネルの開通で寝台特急北斗星が運転を開始した時であるが、この時点で秋田まで運転だった特急あけぼの5号が無くなる。

 ★奥羽線経由 秋田・青森方面ゆき
 特急あけぼの1号 上野19時半頃→秋田6時前後→青森9時前後 奥羽北線 秋田〜弘前をターゲットとする設定 24系寝台車
 特急あけぼの3号 上野21時前後→秋田7時前後→青森10時前後 奥羽南線 湯沢〜秋田をターゲットとする設定 24系寝台車
 急行津軽     上野22時前後→秋田9時前後→青森12時前後 奥羽本線 山形〜弘前をターゲットとする設定 14系座席車
 ★羽越線経由 酒田・秋田方面
 特急出羽     上野22時前後→秋田8時前後        羽越線 酒田‐秋田をターゲットとする設定  24系寝台車

 あけぼの2本、出羽1本、それに急行津軽が定期列車。おがは運転期間を減らしているので記載を外す。それ以外に繁忙期には臨時あけぼの、臨時津軽があったから最大では7本体制と言う事にはなる。
 
 また、ライバル交通機関の状況は次の通り。昼間列車の着実な整備が一つ。そして県都レベルで成功した夜行高速バスの設定が地方中心都市でも行われた事が挙げられる。 

 ●88年 3月 特急たざわ増発(9→13往復)
 ●89年 3月 特急たざわ増発(13→14往復)
 ●89年 3月 秋北バス 池袋−鹿角・大舘・能代 ジュピター号 運行開始
 ●不詳   羽後交通 横浜−横手・大曲・田沢湖 レイク&ポート号 運行開始

【90年9月 山形新幹線工事の影響で体制変更】

 山形新幹線の工事に伴い、夜行列車の本数自体は変わらないものの、列車自体は再編となった。90年9月の状況を記す。

 ★奥羽線経由 秋田・青森方面ゆき
 特急あけぼの  上野21時半頃→秋田7時前後→青森10時前後 奥羽南線 湯沢‐秋田をターゲットとする設定 24系寝台車 陸羽東線経由新庄から奥羽本線
 急行津軽    上野22時半頃→秋田9時前後→青森12時前後 奥羽本線 山形‐弘前をターゲットとする設定 583系座席車 仙山線経由山形から奥羽本線
 ★羽越線経由 酒田・秋田・青森方面ゆき
 特急鳥海    上野19時半頃→秋田6時前後→青森9時前後 奥羽北線 秋田〜弘前をターゲットとする設定 24系寝台車
 特急出羽    上野22時前後→秋田8時前後        羽越線 酒田‐秋田をターゲットとする設定  24系寝台車

 あけぼの1号に相当する列車を羽越線経由として、あけぼのから鳥海に改称。鳥海は82年11月以前は羽越線経由の秋田行き急行の名前であった。90年9月の出羽を名乗る列車に相当する。経由地だけ見るとこの列車が今、唯一残るあけぼのに相当する。
 また、2014年のあけぼのに連結されている個室寝台車は奥羽線経由、あけぼのの名前で存置された3号の方に連結されていた。

 ライバル交通期間では、庄内に空港が出来るなど1県2空港体制が構築されて行くことがあげられる。

 ●90年 9月 山形新幹線工事に伴い、奥羽線昼行特急つばさ 仙台発着に見直し
 ●91年 月 秋田空港羽田線ダブルトラッキング化(ANA4便 JAL1便)
 ●91年10月 庄内空港開港 羽田線1往復就航(ANA

【93年12月 夜行列車大削減の大波】   

 92年7月に山形新幹線が開業。
 そして93年12月。更なる夜行列車リストラが行われ、奥羽線筋の夜行列車にも大変化が起きた。

 ★奥羽線経由 秋田・青森方面ゆき
 特急あけぼの  上野21時半頃→秋田7時前後→青森10時前後 奥羽南線 湯沢‐秋田をターゲットとする設定 24系寝台車 陸羽東線経由新庄から奥羽本線
 ★羽越線経由 酒田・秋田・青森方面ゆき
 特急鳥海    上野19時半頃→秋田6時前後→青森9時前後 羽越線、奥羽北線 鶴岡〜弘前をターゲットとする設定 24系寝台車

 定期の夜行列車はとうとう2本になってしまった。
 利用率低迷を理由に特急出羽が廃止。廃止された出羽の役割は鳥海が担う事となり、鳥海の羽越線内停車駅が増える。
 急行津軽は臨時列車化。仙台から山形経由奥羽線へというルートは変わらないが、年月と共に設定日が減って行き、使いづらい列車となる。

 ライバル交通機関は身内ともいうべき新幹線に大変化。そして羽田拡張が進展し、航空便の増発が出来るようになったことも大きい変化と言える。

 ●92年 7月 山形新幹線福島−山形開業
 ●92年 7月 山形新幹線開業に伴う秋田−上野直通昼行特急つばさ廃止
 ●93年 9月 羽田空港沖合展開に伴う新ターミナル供用開始
 ●94年 9月 青森空港羽田線ダブルトラッキング化(JAS4便、ANA1便)
 ●96年 3月 秋田新幹線工事に伴い田沢湖線運休 特急たざわ 秋田−盛岡間運休
 ●96年 3月 特急たざわ代替 特急 秋田リレー (秋田−北上)運転開始

【97年3月 秋田新幹線開業の影響】

 元々秋田県山形県ミニ新幹線の誘致を争って負けた経緯があった。東北新幹線の青森延長も決まった事からこのままでは発展に取り残されるとの危機感を持って田沢湖線ミニ新幹線化を協力に推進。結果、1992年に秋田新幹線計画が発表、着工となる。
 工期4年。97年春に開業を迎える。当然のことながら奥羽線方面の夜行列車は削減の対象となる。とうとう1往復になってしまった。

 ★羽越線経由 酒田・秋田・青森方面ゆき
 特急あけぼの 上野21時前後→秋田7時前→青森10時前 鶴岡−弘前をターゲットとする設定 24系寝台車

 列車としては以前のあけぼのに相当する列車が無くなり、鳥海に相当する列車が存置。時間帯は21時台になったので、奥羽線経由だったあけぼのの時間である。車両はA、B個室が引き継がれるから、これもあけぼのに相当する列車となる。
 ただ、列車としては元津軽1号が流転を重ねてあけぼのに出世した、と言えなくはない。
 あけぼのが鶴岡から弘前の広い範囲をカバーするのだが、奥羽南線の湯沢、横手、大曲の三都市からは夜行列車が無くなってしまった。
 救済として消えかかっていた急行津軽が週末臨という扱いで運転するようになった。車両は583系寝台電車の特性を生かして座席寝台混結で運転されていたが、こちらも設定日が‎減って行くいつものパターンで消滅する事になる。 

 ●97年 3月 秋田新幹線開業 
 ●97年 7月 秋田自動車道 北上JCT−秋田南IC 全通
 ●97年 7月 庄内空港 羽田線増便(3往復 ANA
 ●98年 9月 大舘能代空港開港 羽田線2往復就航(ANK
 ●99年12月 山形新幹線 山形−新庄延長
 ●99年12月 新庄−大曲 新幹線接続特急廃止

そしてジリ貧へ

これだけ書いてまた21世紀には来ていない。あと15年の間、あけぼのは孤高の1往復を守り続ける事になる。そして孤高の1往復は気が付くととんでもない広い範囲を守備することになってしまった。
 今これから乗る上りあけぼの。青森駅を出発するのは18:23。青森18時半という時間はまだ新幹線で東京日着が可能な時間であり、青森自体はあけぼのがターゲットとする都市ではない。次の弘前、19:01では東京日着が不可能な時間となり、故に弘前からが守備範囲になる。
 大舘、鷹ノ巣東能代と奥羽北線の市町で丹念にお客さんを拾い集め、秋田には21:23。この時間だと打ち合わせの後、一杯やってちょうど良い時間である。マスの大きな秋田のお客さんは確実に拾っておきたいところ。
 さらに列車は羽越路へ。秋田県の南側も高速交通体系の網から零れ落ちた地域であり、寝台特急あけぼのが受け入れられる土地である。本荘、仁賀保とお客さんを細かく拾う。仁賀保TDK企業城下町だが、今どきの出張に寝台特急が使われるのかどうかは、良く分からない。列車は3県目、山形県に?入る。
 庄内の中心都市、酒田には23:01。ここは庄内空港からの空路がすっかり定着している。航空機のナイトステイも行われており、始発便は庄内発7:10である。一方最終便で見ると空路が庄内空港17:55、陸路は酒田駅18:00。どちらも距離の割には早いので、夜行列車に多少の分はあるかも知れない。ただそこには夜行バスという選択肢もある。バスだと22時前後に酒田発となって時間帯としてはそちらの方が良いかも知れない。
 酒田の次には鶴岡という都市が控えていて、鶴岡の発車は23:28。青森から318.1km、5時間5分。常識的にはこの辺りまでが守備範囲と思われるが、あけぼのはまだ営業を続ける。あつみ温泉、村上、新発田新潟県内の駅にも停まる。最後の停車駅、新津は1:34の出発。この時間まで夜行列車を待つ人がいるとはとても思えないが、青森から7時間以上、距離にして457.5kmの長きを守備範囲としているのである。これでは零れ落ちる需要も多かろう。

 この状況でライバル交通機関は攻勢を強める。別にあけぼのの需要を奪い合うためではなく、航空機、新幹線、高速道路が各々努力をし、パイを奪い合う間に相対的に夜行列車の魅力が薄れ、商売としての旨みが薄れて、今日に至ったのかも知れない。
21世紀になってからの傾向を少々述べてみよう。一つは宿泊施設に関する考察、一つは空路に関する考察、そして陸路に関する考察となる

 新幹線の整備と平行して東北の諸都市に整備されたのがビジネスホテルである。秋田市に関していうと97年の秋田新幹線開業が一つのきっかけになり、ビジネスホテルが進出した。ちょうど市街地の空洞化が進んでいて、手ごろな土地が供給されたこともあって、秋田の中心街はビジネスホテルだらけになった。α‐1が建っているのは元なかよし、ドーミーインは元マルサン。コンフォートホテルが建っているのは元文具のいとうである。
 ホテルが増えた割には需要が増えないからホテル間の競争が起こる。しっかりとした検証が必要だが、秋田市内の宿泊費は下落傾向となる。この事も夜行列車から昼行移動+市内宿泊という移動スタイルの変更を促す事に繋がる。

 次に空路に関して考察をしたい。90年代には空港の1県2空港化という整備がなされた。山形、秋田、青森。すべてが1県に2空港という体制が整った。そして羽田拡張により離着陸回数が増えた。この点は目に見える形の変化である。
 2000年代には、空港の運用時間拡大と、それに伴うナイトステイ化が推し進められる。
 運用時間の拡大とは、例えば日の出から日の入りまでに制限されていた空港の運用時間を夜間帯にも拡大して行く取組である。運用時間を拡げる事で最終便の羽田発が遅い時間となる。それに伴い、東京での打ち合わせが終わってからでも十分、飛行機で地方に帰って来ることができる。もちろん、地方発の羽田行き最終便の出発が遅くなることも期待できる。
 更に進むと、夜遅くに飛んできた最終便が、そのまま地方空港に駐泊し、翌朝の第一便として戻る、ナイトステイという扱いになる。地方にとっては朝、早々に羽田に到着する事が出来、夜遅くまで東京に滞在できるため、メリットが非常に大きい。従って、地方都市はこぞってナイトステイの実現に取り組むことになる。
 現在、秋田空港で言えば始発便と最終便はこんな感じになる。

 2014年2月現在の航空ダイヤ 始発便及び最終便
  羽田→ 秋田
  7:25→ 8:35 JL1261
20:25→21:30 NH 789
秋田→羽田
7:35→ 8:45 NH 782
20:45→22:00 JL1268
 現在はJAL4便、ANA4便の計8往復が就航している。ANAは秋田のナイトステイを実施している。
 秋田から羽田に行く場合、東京の滞在時間は最大11時間40分。羽田から秋田だと秋田の滞在時間は最大12時間10分となる。
 自宅に戻って書いているので少々手元に時刻表がある。秋田新幹線が開業した時、1997年3月の時刻表があったので、併せてみてみよう。

 1997年3月現在の航空ダイヤ
  羽田→ 秋田
7:30→ 8:30 NH871
18:00→19:00 NH879
秋田→ 羽田
9:20→10:25 NH872
19:45→20:50 NH880

 当時はJAL2便、ANA4便の計6往復であった。そして、ナイトステイは行われていない。
 秋田から羽田に行く場合、東京の滞在時間は最大7時間35分。羽田から秋田だと秋田の滞在時間は最大11時間15分となる。

 ちなみに新幹線のダイヤも折角なので見てみる。

 1997年3月開業 秋田新幹線のダイヤ
  東京→ 秋田
  6:50→11:16 こまち11号
19:00→23:26 こまち59号
秋田→ 東京
6:12→10:40 こまち10号
18:10→22:38 こまち60号
  
 そして当時のあけぼののダイヤ

  上野→ 秋田→ 青森
  21:41→ 6:49→10:21
  青森→ 秋田→ 上野
  18:03→20:57→ 6:58

 朝9時の打ち合わせとか、結婚式とか、参加しようとすると確かにあけぼのを使うのがベストという状況である事がわかる。
 調子に乗って奥羽南線の救済列車として設定日が増えた急行津軽を記す。

  上野→ 横手→ 秋田→ 青森
  22:34→ 7:41→ 9:13→12:15
  青森→ 秋田→ 横手→ 上野
  16:01→20:12→21:30→ 5:52   
 
 いい加減、先に進もう。 

 最後に自動車との関係を綴らねばならない。ただ自動車交通を語れるほどの知識は無いから、夜行列車と自動車の関係に絞るのであれば、高速バスと夜行列車という関係になる。
 80年代、県都レベルで高速バスが芽を出した。それが地方中心都市にも伸びてゆく。地方と東京を結ぶ夜行高速バスは、地方のバス会社にとってはドル箱となった。

 折角、97年3月の時刻表があるから、それに出ているあけぼのエリアの夜行高速バスを記す。路線高速バスが完全に日常の物になり、各都市に行き渡って数年と言った所か。

 東京駅八重洲口−青森     ラフォーレ号     1往復 京浜急行・弘南バス・JRバス東北JRバス関東
 横浜駅東口−弘前       ノクターン号     1往復 京浜急行・弘南バス
 品川駅−弘前         ノクターン号     1往復 京浜急行・弘南バス
 品川駅−五所川原       ノクターン号     1往復 京浜急行・弘南バス
 池袋駅−花輪・大舘・能代   ジュピター号     1往復 国際興業秋北バス
 新宿駅−角館・協和・秋田   フローラ号      1往復 小田急バス秋田中央交通
 東京駅八重洲口−仁賀保・本荘 ドリーム鳥海号    1往復 JRバス東北羽後交通
 池袋駅・大宮駅−鶴岡・酒田  夕陽号        1往復 国際興業・庄内交通
 渋谷駅−鶴岡・酒田      日本海ハイウェイ夕陽 1往復 庄内交通
 横浜駅−横手・大曲・田沢湖  レイクアンドポート号 1往復 相模鉄道羽後交通

 主だった都市は網羅されていてそれぞれがB寝台車1両分程度のお客さんを運ぶ能力がある。これをまとめると少なく見積もってもB寝台車10両程度のお客さんを運んでいる事になるのだろうか。
 更に2000年以降の規制緩和でいわゆる高速ツアーバスが台頭してくる。ここを詳細に記す知識は無いから割愛するけど、2014年2月で適当に検索を掛けると秋田‐東京だけで6社が9便を出しているようだ。こちらも夜行列車1列車分ぐらいの能力となる。

あけぼの 上京

 さて、目の前のあけぼのに立ち戻ろう。
 運転所から入れ換え機関車にエスコートされてやってきた寝台車がドアを開け、客を迎える。出発まで20分。まずは入れ換え機関車側を眺めてみる。


 切り離し作業が進んでいる。

 機関車が離れてゆくと電源車のスクエアな顔が姿を現す。
 今日は昼過ぎに秋田駅でB個室を確保する事ができた。荷物をまずは個室に置いてゆく。そして先頭の機関車を見にゆく。まずは自分のホーム側。

 記念撮影に興じる人がちらほら。そして機関車を撮影する人も。線路を挟んで隣のホームからは三脚を構えた人たちが20人近くいるだろうか。時折、
「階段の隣の人、邪魔〜」
 みたいな少々甲高い声が向かいから。葬送には付き物ではあるが、みっともない。

 だいぶ時間が無くなってくる。跨線橋に上がって数枚撮影。

 ホームの反対側にも行ってみたが、入れて貰える雰囲気ではなく、ロクに撮れないまま時間が切れる。20分という持ち時間。案外と短いなぁと思う事になる。

 青森駅頭には上野行寝台特急あけぼのの出発時間が迫っている。ここで今日のスターティングメンバーを発表しよう。

 EF81-139  電気機関車 
 オハネフ25-205 レディースゴロンとカー
 オハネ25-210  B寝台車
 オハネ25-220  B寝台車
 オハネフ25-202 羽後本荘まで座席利用
 オハネ25-554  B個室寝台
 オハネ25-555  B個室寝台
 スロネ25-551  A個室寝台
 オハネフ24-8  ゴロンとカー
 カニ24-109   電源車

 以上10両編成。人気なんだし増結すれば?と思うが、そのつもりはないようだ。
 1号車から4号車までは金帯を巻いた車両。元々あさかぜ1、4号に使われたものが、あさかぜの廃止ではくつるに転用され、はくつるの廃止であけぼのにやって来たのではないかと思うが、定かではない。金帯を巻いたブルートレーンというとリニューアルを受けたあさかぜ、個室寝台車を連ねた北斗星といったあたりなので、中身は一緒でもどこか高級感を感じる。感じるのだが、その車両があけぼのに付いていると、どこかよそ物、流れ物の感が漂うような気がしている。
 5,6,7号車は1991年に登場した個室寝台車。改造自体が当時の土崎工場、今の秋田車両センターで行われているし、現代の出世列車を象徴するような車両ではある。
 最後、8号車は白帯車。車両自体の来歴は知らないが、あけぼのは1980年に20系から24系に置き換えられて以来、ずっと24系であったから、由緒正しい直系という匂いがする。そんな組み合わせで今日は上野を目指す。
 そして車内を少々紹介しておこう。



 B寝台車を改めて撮るのも変な気がするのだが、これはこれで絶滅危惧種だから、きちんと記録しておかねばならない。まだ主のいない区画があったから撮っておく。この車両は青森から全区間を寝台として使用されるので、すでに毛布とシーツ、浴衣が用意されている。一方、4号車は羽後本荘まで座席車扱い。指定席券を用意すれば乗車可能な扱いである。奥羽北線の昼行列車を補うための扱いだ。この車両はたくさんのお客さんが乗っている。中には1区画に6人がいるところもあって、なかなかの盛況ぶり。

 次にB個室の風景を少々。この車両に乗るのは初めてである。

 真ん中に通路を配して、両側に下段相当の個室、上段相当の1人用個室がある。線路と平行に個室が並ぶ形で定員は28人。北斗星などで使われる1人用個室寝台は線路と直角に部屋が並び定員は18人程度だから、相当な詰め込みタイプである。

 こちらは上段。隣と共通の階段があって、そこにドアがある。ベットは一部が跳ね上げるようになっていて、座る時は多少空間が確保されるように考慮されているようだ。

 自分があてがわれたのは下段。こちらは通路に直接面して扉がある。扉の背は低く、屈むような感じでベットに潜り込む感じになる。中にはほとんどすでにベットがセットされた状態。

 空調、照明とミュージックサービスのパネルがある。空調は冷暖房と換気の二つ。音楽のサービスは最大4ch設定だが、実際にサービスをしているのは2chだけだった。

 扉を閉める。少々手荒い感じの作りが気になる。よく言えば手作り感といった所。車両の内装を新しく作り込むことになれてない鉄道工場の手による物だからだろうとは思う。

 ささやかなテーブルと鏡。夕食のお弁当をおいておく。ちなみにくず物入れも揃っている。

 横になって部屋の中を見ると妙な出っ張り。これは上段の個室へゆくための階段となる。本来は出っ張り側に足を向けるのが正なのだろうと思われる。ただ、それだと進行方向と逆になっちゃうのよねん。

 部屋の中には灰皿。寝台を使っていない時は喫煙可能ということになる。最近の電車はタバコを吸えないのが当たり前なので、ちょっと驚いた。

 寝台車なので浴衣は完備。

 開放型寝台車の方にもあったが、洗面所には冷水機がある。国鉄型の特急列車には昼行、夜行問わず必ず付いていたアイテム。薄っぺらい紙コップも久しぶりに見た。最近は485系でも撤去されているから、先程のいなほでもお目に掛からなかった。
 そろそろ部屋に戻る。18:23に出発、の筈だが少々遅れている。津軽海峡線の列車に遅れがあって信号が代わり次第の発車とのこと。下段の個室は座ってという姿勢が取れないので、ベットの上に座り込んで、発車を待つ。案内があって動き出したのは18:30のこと。ホームで邪魔と叫んでいた人たちには幸運だったのかも知れない。


 買い求めたビールは窓際に置いておく。冬の夜行列車では、カーテンの向こうに飲み物を置いておけば、冷えたままで取っておける事がある。
 18:30になって発車の案内。まもなくごとりと列車が動き出す。オルゴールがなって停車駅と到着時刻の案内がある。このままの遅れで参りますととの断り付きで定刻に7分を足した案内が秋田まで続く。秋田から先はまた後ほどとのこと。車内販売はないとのこと。車掌は秋田で交代だそうだ。まもなく新青森到着。律儀に新幹線接続の案内。この時間、まだ東京まで行く列車がある。降りる人はいなかっただろうが。新青森の明るいホームが流れて行くと、外は漆黒となる。12時間少々の長い時間。今までの旅を振り返り、綴るには最適の時間かもしれないが、やる気が失せた。PCは仕舞い込んで缶ビールを空ける。夕食には早いような気がするのでまずは1本、つまみと共に。二本目を開けるときになって、じゃぁ手元の駅弁、食べましょうか、と言うことになった。今日三食目の駅弁となる。

【今日の駅弁】青森海鮮ちらし寿司 ¥950 有限会社幸福の寿し本舗


 駅弁マークは付いているのだけど、耳馴染みのない業者の名前が製造元に記されたちょっと不思議な駅弁。開けてみると名に違わず、いろいろな種類の海鮮が散らしてあり、満足感は得られる。適当に買い求めた一品でも十分に満足できて、東北地方の駅弁の、レベルの高さを思い知らされる事になる。

あけぼの 上京 その2

 列車は弘前に到着。乗り込んできた乗客はあまりいなかたようにも見える。が、普段と違うのはさよならのお客さんが青森から上野まで通しで乗っている事。突然用事ができてあけぼのに乗ろうとしても簡単に寝台券が取れる状況ではないから、弘前であけぼのを迎えるお客さんが少ないのは、仕方ないことかも知れない。

 向かいのホームから回送表示の701系が入れ替わりに出発して行くをの寝そべりながら眺めると、こちらの列車も出発となる。ガタンと小さな衝撃が来て列車はゆっくりと動き出す。街明かりが消えると外は再びの漆黒。

先程、日の高いうちに降り立った大鰐温泉の駅も暗闇に沈んでいた。小さな街の小さな駅から、大都会東京へと直行する列車が走るのもあと1ヶ月少々ではあるが、その列車のチケットは最早プラチナ化している。誰にも迎えられることなく列車は動き出す。
 三本目のビールをちびりちびりと飲みながら、青森秋田の県境を越えて行く。効き過ぎだった暖房は切ってしまう。ふと思って前の方の車両を見に行ってみる。個室は数室まだ空いている。でもこのまま空室、と言うことはないだろう。秋田から山形にかけて乗ってくるお客さんがまだいるという事。

 2号車、通路の補助いすに所在なく座っている人が何人か。上段寝台の主だろうか。一方下段の中にはカーテンを閉じている所もあったりする。寝台が使用開始されるなら上段の人も下段に腰かけてよい筈ではあるが、今の世の中、見ず知らずの人の寝台に腰かけるというのも煩わしいのかも知れない。

 折戸のデッキには外の雪が侵入し、吹き溜まり状態に。青森から1時間半ほどした経っていないのだけど、扉の隙間から容赦なく雪は侵食する。折戸になっている鉄道車両って寝台車には多いのだが、冬は大変だったに違いない。

 こちらは中間に封じ込められた車掌室付きの車両。目の前にあけぼののヘッドマークがどんと構え、格好の被写体になっている。コマを回すとあけぼのに集約される前の、さまざまな列車たち、或いは東北線日本海縦貫線に散った列車たちの輝かしいマークが出てくるのかも知れないが、この車両はもはやあけぼの専用。それもそう遠くない日に任を解かれる事となる。
 部屋に戻ってビールの続き。つまみは先程青森駅構外で買い求めた鮭とばを頂きながら、となる。時折、真っ白な駅が現れる。

 東能代の駅に到着。定刻より少々遅れを引きずったままのようだ。向かいの下りホームには寄せられた雪がうず高く積もる。その向こうには一日の仕事を終えた701系が灯りを落として休んでいる。まだ夜の8時半過ぎだが、何だか深夜のような雰囲気ではある。
 狭い個室のベットにごろりと横になる。何となく睡魔に吸い込まれていった。頭上のスピーカからは秋田到着までは森岳八郎潟と案内放送があったはずなのだが、全く気付かなかった。秋田の2分停車も全く覚えておらず、羽後本荘で4号車の指定席扱いが解け、寝台車に変わってもなお寝続けた。TDK企業城下町仁賀保の乗り降りも知らぬまま、有耶無耶の関を通り越し、庄内地方の代表的都市、酒田を発車した後に、寒さで目が覚める。
 毛布を被らぬまま、暖房を切って寝転んでいたしまったので少々体が冷えている。さすがに不味いなぁと思って暖房をつける。ビールは全部開けていた。最後に買った日本酒が一本残ったままだがさすがにもう飲む気にはなれない。
 折角なので浴衣に袖を通す。個室に閉じこもっていると列車の中の動きは良くわからない。外の様子を見に行けばB寝台満席の盛況特急が見られるのだろうが、個室を宛がわれ、酒が入ってしまうとその元気もない。余目の停車は覚えていたが、鶴岡の記憶はなく、また夢の中に引き込まれる。
 新発田を出たところでまた目が覚めて、もう一度眠る。その次はどうやら越後湯沢の手前であった。そんな調子で完全な熟睡ではないのだけど、割とよく眠れた。昨日が夜行バスでいい加減な眠りだった事もあろうが、今日のあけぼの。しっかりと眠れるよい夜になる。